☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…
第8回 野球とスーパーカー
小学生男子が好きなものといえば「野球」がかなり上位に挙がるのは間違いない。 我が校の男子も例にもれず、みな野球が好きだった。 しかし私は野球があまり上手くできなかったので、積極的になれなかった。 そう、この時期はみな、自分たちが野球をプレイすることがメインだからである。 テレビでのプロ野球、高校野球を見る時も、自分が投げる時、打つ時、などオーバーラップして見ることも多かったであろう。 しかし私にはそうした感覚を持てなかったのだ。
学校では4年生以上になると、半ば強制的に、地域区別のソフトボールチームに入れられる。 正統派小学生男子なら喜び勇むところだろうが、自分の力不足から気が向かず、申し訳程度に数回参加しただけで、あとはサボってしまっていた。 その反動なのか、ゴルフに興味を示すようになった。
当時、小田原の実家にはまだ芝生のある庭があり、買ってもらった子供用のゴルフのおもちゃで、一人でゴルフごっこをしていた。 庭の中央に勝手に穴をあけ、そのホールめざしてボールをひたすら打って転がすのが楽しかった。 テレビでゴルフの中継も見たが、ホールインの時の「カラン!」という音を真似したくて、庭のホールにゼリーの空き缶をはめたりもした。 またこの当時、活躍していたジャック・ニクラウスの名は幼心に記憶に残った。
しかしながら、小学校6年の時、巨人軍の王貞治選手(当時)がホームラン世界記録・756本をを達成したことには、さすがに心を燃やした。 世間もこの時ばかりはライバルチームのファンも関係なく喜んでいたように思う。 それほど日本国民にとっては大きな出来事であり、また誇れることだったのだ。 今年のワールドカップ予選リーグでラグビー日本代表が3勝し、みな熱狂したことは記憶に新しいが、この王選手の時の熱狂はその比ではなかった。
同じ頃、スーパーカーブームというのもやって来て、これには私もクラスの皆とともに湧いていた。 発端は池沢さとしさんの漫画「サーキットの狼」だが、その中でレースを繰り広げる(主に外国の)様々なスポーツカーたちが、世の子供たちの憧れとなったのだ。 そのクルマたちにはいつからか「スーパーカー」というニックネーム的名称がつけられていた。 日本車好きの私は、トヨタ2000GT、日産フェアレディZ等が堂々とその仲間入りをしていたことを嬉しく思った。 外車で一番の人気はイタリアのランボルギーニカウンタックという車だったが、私は同じランボルギーニのミウラという車が好きだった。 なぜなら、私が確か幼稚園の頃、 祖母に買ってもらった初めてのミニカー(ブリキの自動車玩具とは別物)がこの車だったからかもしれない。
王選手のホームラン世界記録とスーパーカーで湧く小学校5、6年のクラスは、私にとっては生涯忘れられないくらい良い仲間が多かった。 担任は、あの小田原の偉人・二宮尊徳の血筋を引く先生だった。 ただ体育の専門を出ているので、ふだんからトレーニングウェアを着ていることが多く、学校にあった二宮金次郎像(尊徳の幼少期の像)の横に並んでも全くイメージは似つかなかったが、今にして思えば、みな仲間どうしを思いやる気持ちをとてもよく持っていたクラスだったように思う。 私個人に関して言えば、少なくとも男子児童で仲の悪い子はいなかった。 あるいはこの頃は、仲間への友情や思いやりに目覚める年頃なのだろうか。
ただ、クラス内の一部にいじめがあったのは残念だった。 当時同じクラスに、経済的な理由から家を持つことができず、浜辺に小屋を建て住んでいた大家族の長女がいた。 家庭の事情もあり着ているものが毎日同じだったり、風呂にも満足に入れなかったりと、いろいろ気の毒な生活をしていた。 そうした者に対し、侮辱的な言葉を吐く者が何人かいて、先生はその場面を見るたびに激怒していた。 しかも、そうした言葉を言った一人が、先生の高校時代の恩師の息子だったのは、なんとも皮肉なことである。
小学校高学年の頃、引き続き絵も好きで描いてはいたが、この頃はクレヨンの混色に興味を持ったり、色名を覚えたりすることの方がおもしろくなり、絵というよりビジュアル全般に関心が飛んでいたようだった。