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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…

最終回 もう一度…

 今回で「未来へのミラー」はとりあえず幕となることもあり、前回まで追ってきた自分の半生を、早足ではあるがもう一度顧みてみたい気持ちになった。

小田原の家

 何度も紹介したように、私は神奈川県の小田原に生まれ、30歳過ぎまでその地で育ち、暮らしていた。  東京都内の私立高校に入学するまでは、旅行や家族との所要を除き、ほぼ小田原を出たことがなかった。  そのため、今でも小田原の風景は明確におぼえており、何かにつけては、特に読書や音楽鑑賞している時に小田原の様々な場所が頭に浮かぶことも多い。  まさに自分にとっての「原風景」と言えるだろうか。  視覚を中心とする仕事をしている現在でも、この影響は大きいと感じている。

 また、幼い頃から大人の世界に慣らされていたようにも思う。  生まれた時は8人家族で、それぞれがどんな関係かを歳を重ねるごとに覚えながらも、人数が人数だけに、家族が最も身近なコミュニティーだったように思う。  そんなせいか若い頃、だいたい20代半ば頃までは、とても狭い世界で生きてきた気がする。  大家族ゆえに、ほぼ家の中で事足りてしまい、家の中は充実した楽しい場所だった。  そんなことから、あまり外の世界を知らなかったかもしれない。

ミニチュアカー

 そのせいで幼稚園に入ってもあまり同学年の子供たちと最初は馴染めなかったし、小中学校でもその名残は続いた。  子供どうしの世界が、逆にあまり得意ではなかった。 加えて、幼い頃は扁桃腺が弱く、よくのど風邪をひいていたため、学校を遅刻、休みがちになることも多かった。  そうした状況からか自然と「学校・外」よりも「家」、という好みの順番が自分の中にできていた。

 小学校は、行ったら行ったで楽しいことも多かったのだが、できればあまり行きたくないという気持ちも強かったのだろう。  上記のように風邪をひいて医者に行って遅刻などした時は、「行き場のない」安らぎ、少しでも学校にいる時間を短くできる安らぎも感じていたように思う。  決して一日中休めるわけではないのに。  父の持っていたジャズのレコードを引っ張り出し、学校を遅刻して聴いていたという話も紹介したが、それも意図的だったかもしれない。  ただ、クラスの友人はよく遊びに来ることは多かった。  特に低学年の頃は、前述の通り家族の多い家だったので、友人の親に用事があったりすると「家族の多いあの家に子供を預かっていてもらおう」という、いわば託児所的な感覚もあったかもしれない。

 中学校に上がってからは、休みや遅刻も少なくなり、仲の良い友人とだけはある程度付き合えるようにはなって行った。  しかしながら、とにかく自分の興味ないものには触れなかったので、仲間どうしの流行にもついて行けないことも多々あった。  友達の中には皆の間で流行しているものしか興味を示さない友人もあり、私としては気持ちが知れなかった。

遊園地

 そんな中、当時大流行したインベーダーゲームもさして興味はなく、興味がないからやることも少なく、やることが少ないから上手くもなかった。  それで、友人がインベーダーを始めると、行き場のない体勢でただ見ているしかないことも多く、「みんながやってくれなければいいのに」と思うことも多くあった。  怪獣消しゴムを集めることだけは、他の友人と気が合ったかもしれないが。

 高校に入学し、やっと友人と付き合っていくことが人並みにはできるようにはなって行った。  興味のないことでも、一応知っていた方がよいことの見分けは、つくようにはなった。  人生初めての社会慣れをおぼえたのだろうか。  しかし未だ狭い世界に留まっていたことは否めない。

 幼い頃から絵を描くことが好きで、それしか得意なものはない。  いつもそんな思いいだった。  親に聞けば、幼い頃に駄々をこねても紙とペンさえ渡せば静かになる、そういう子供だったらしい。  では、やはり自分には絵=美術しか行く道はないと信じてしまっていた。

 最近思うが、今自分が大学受験生だったら理科系を選んでいたかもしれない。  それは美術をやらないということではない。  最近の自分は、人の体のこと、宇宙のこと、環境問題などの書物を読むことも多く、そうしたニュースにも興味がある。  そうしたことを学びながらでも、美術はやって行けるのではないか、あるいはそうした他分野のテーマを学ぶことにより、美術のテーマもより充実してくるのではないか、とも思うのだ。  しかしそれは今だから思うことでもあるのだろう。  人間長く生きれば生きるほど、興味の対象は増えて当然なのだから。

御幸の浜

 20代半ば頃からだろうか、自分の狭さに気づき、自分で修正して行こうとある程度務めるようにはなれた。  30歳を過ぎて個展デビューした頃も、すでに美術以外のことにも興味を示すようになっていた。

 その後、作家活動、特に発表活動を続けるにしたがい、さらに世界が広がって行ったように思う。  発表活動を行えばいろいろな分野の人にも接するようになるし、その多様性は学生時代の比ではない。

 それから10年余り。  ウサギのキャラクター「マルタ」を創作し、発表するようになってからは、世界の広がりは、大げさには倍増したように思うし、美術を通じてやりたかったこと、「社会貢献」や「心の癒し」等も、マルタを通じて実現させてもらえているように思う。  まだまだ完全ではないにしろ、取りあえずは「今の仕事をしていてよかった」と思えるレベルまではやっと来たかもしれない。

 そんなことで、次回からはこのページを「宮島永太良研究」とあらため、自分が美術作家として活動するようになってからの経験、逸話を、できるだけわかりやすく語って行きたいと思う。  最後に、この「未来へのミラー」を毎回読んで下さった読者の方々に、心より感謝申し上げます。  どうもありがとうございました。

(写真:関 幸貴) 
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