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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…

第6回 本町小学校へ♪

本町小学校

 1972年(昭和47年)4月、私は小田原市立本町小学校に入学した。  現在は隣にあった城内小学校と合併し「三の丸小学校」となっている。  幼稚園の同級生のほとんどは城内小学校へ進学したため、本町小学校のクラスでは、わずか二人の幼稚園クラスメイトが来ただけだった。  ちなみに一人は小田原の老舗の自転車屋の息子(小学校でも6年間同じクラスだった。  現在も稼業を継いでいる模様)、もう一人は後に転校していってしまったのでわからない。  そんな中、ほとんど新しい友達ばかりに囲まれての小学校生活が始まった。

  小田原城

幼稚園の時とは違い、小学校ではわりと早いうちにみんなと仲良くなれた。  担任は、当時まだ25〜6歳くらいの若い女性の先生だった。  近年、その頃の遠足の記念写真に写った先生を見たら、まるで教育実習生のようだった。  富山県の出身らしく、イントネーションに特徴があった。  先生が時々なまって話したりすると、逆に生徒が指摘して直すという面白い現象もあった。

小田原の家

 小学校の先生で最も印象に残っているのは、となりのクラスの担任をしていたベテランの男性の先生だ。  クレージーキャッツのハナ肇似の顔で、当時としてはただ恐い先生でしかなかったが、今になって思えば、なかなか笑える人だった。  ほぼ毎日のように生徒を叱りつけていたが、もしかしたら怒ることを面白がっていたのではと、思う。  この先生に「うるせえ、バカヤロー!」と言った勇気ある生徒は「先生に向かってバカヤローとはなんだ!!」と言われ柔道の技を面白半分にかけられていた。

怪獣の名前

 清掃に力を入れていた小学校で、私は清掃班の班長に選ばれた。  ただ、班長の立場を勘違いし、やたらと同じ班の友達に威張り散らしてしまった記憶がある。  その結果、反発を受けることになった。  が、本当のリーダーとは、部下を時には見守り、時には忠告し、常に良き相談相手になるべきだが、若干7歳の私にそんなことがわかるはずもなかった。  しかしながら家に遊びに来る友達は多かった。  今にして思えば、祖母や家政婦までいたので、核家族、共働きの家からすれば、うってつけの子どもの預かり先だったのかもしれない。

クレヨン

 小学校での得意科目は「図画工作」で、特に絵が好きだった。  この頃になると、昔住んでいた場所の絵は描いていなかったが、クラスではわりと絵が上手な子と見なされていた。  そのため中には明日までに怪獣の絵を10枚描いてきてくれという友達や(自分も友達も相変わらず怪獣ブームが続いていたため)、図工の時間「君と同じ絵を描けばうまく描ける」などと勝手な思い込みをした友達もあり、校庭での写生にくっついてまわってきたりされて、迷惑な思いをしたこともあった。  そうした影響か画材にも興味があり、クレヨン、絵具、色鉛筆などを、色名を覚えながら眺めるのも好きだった。  赤、青、黄、緑などはすでに知ってはいたが、えび茶、藤色、象牙色など、この時代に覚えた色には新鮮味を感じた。

窓からの眺め

 絵といえばもう一つ。 この年は沖縄が日本に返還された年でもあった。  沖縄の子供たちに絵をプレゼントするという目的で、学校が各クラスから2〜3人の生徒を選び、絵を描かせることを考えていたようで、私もその一人に選ばれ、何を描こうか考えた挙句、描いたのが富士山の絵だった。  しかしその作品がクラスで発表されると、他の生徒が皆「僕も私も」と積極的になり、結果的にクラスの人数に近い絵の数が集まったのは、今になれば、微笑ましく喜ばしいことだったと思う。

 この頃は、夏になると近所の市営プールに行きたくて、毎日のように母親にせがんでは連れていってもらっていた。  学校の水泳の時間は好きではなかったが、プールで自由に遊べるのは大好きだった。  今でもその時行ったプールやその帰りに行った浜辺の光景が 、汐の匂いとともに脳裏によみがえって来る。  そんなプール好きの少年だったが、2年生の時受けたツベルクリン注射で、陽性反応が出てしまい、1年間プールに入ってはいけなくなってしまった。  およそ半数の生徒がそうした対象だったと思う。  それ以後、プールに入ることに縁が薄らいで行ってしまったのは、今思えば残念だった。

ミニカーやプラモデル

 その2年生の秋、不思議なことが起こった。  学校にいる間、急に昔遊んでいた自動車のおもちゃが懐かしくなったのだ。  何故なのかは思い出せない。  早速家に帰り、物置の中を探しまわしてはみたが出て来なかった。  それを機に、自動車のおもちゃ(ミニカーやプラモデル)に再度興味がわくのだった。  これを私自身、「人生初のレトロブーム」と命名している。  若干8歳であった。

(写真:関 幸貴) 
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