☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…
第4回 秦野のアパート
幼い頃から小田原を離れたことのない私だったが、物心つき、初めて小田原以外の場所を意識したのは、祖母がアパートを経営し始めてからだった。 以前旅館を経営していた気質が残っていたのだろう、小田原の新居を建てて間もなく、同じ神奈川県の秦野市内に、祖母は大学生向けのアパートを経営することとなった。 昭和44年(1969年)頃のことだ。 場所は東海大学のすぐ近くの南矢名という所で、現在の小田急線「東海大学前駅」のすぐ近くだ。 ただし、この頃は「大根」( おおね)という駅名だった。
時は東大安田講堂を発端とした学生運動真っ盛りで、近くの東海大学でもかなりの学生運動が起きていたのを、子ども心に覚えている。 最初に祖母のアパートにやって来た学生は、大学で学生運動の中心となっていた空手部の人だった。 すぐ隣にあるアパートに住んでいたが、そこの大家とも対立し、仲間を引き連れてこちらに来たらしいのだ。 よって最初から満室になるというラッキーな状態であった。
私もよく祖母と両親に連れられ、自家用車ローレルでこのアパートに通った。 血気盛んな学生下宿人が多かったであろうが、4から5歳の私には、みな優しくしてくれたのを覚えている。 祖母はかなり慕われた大家だったのだろうか、下宿の学生全員が、小田原の自宅まで泊りがけで遊びに来たこともあった。 この頃下宿の学生たちが「風」というフォークソングを聴いていたのはよく覚えているし、現在も私の好きな歌の一つだ。 「人は誰もただ一人・・・」で始まる有名な楽曲である。
この東海大学付近の町は、幼い私にとって、小田原とは違ったテイストを感じさせた。 どぶ板とか、ガードレールとか、また建っている家などが、小田原とは少し違うデザインなのである。 絵本や写真で見た外国に少なからず近いように思えた。 今でも忘れられないのは、この町の一角にトーテムポールがあったことだ。 ある喫茶店が、店のPRのために立てたもののようだったが、幼い私が、初めてトーテムポールを見たインパクトは凄まじいものであった。 「顔のついた大きなバナナ」だった。 それからやみつきになり、アパートに来るたびに、トーテムポールまで連れて行ってほしいと親にせがむ状態であった。 ここへ来るようになってから一年後くらいの1970年(昭和45年)に大阪万博が開催されたが、その会場がテレビで映し出された時、シンボルの「太陽の塔」を見て「トーテムポールだ!」と叫んでしまったほどだった。