パリで見た「日本的光景」
宮島永太良のパリレポート 後編
フランスでは、年に2回「ジャパン・エキスポ」というのが開かれている様だ。 夏季はパリで、冬季はニースで。 東京でいえば、有明の展示場のように、いくつもの日本関連のブースが出て、展示・販売を行うものらしい。
そこで出展されるものといえば、伝統的な日本の工芸品などもあるが、それは少数で、大部分は日本のアニメーションや漫画、またそれらを真似たコスプレや玩具などであり、会場では現地の若者が集まり、賑わうという。 ただし、若者だけに、お金はあまり落としていかない傾向はあるようだが、それでもフランスの若者の「現代の日本」に対する興味はすさまじいらしい。
茶道や華道、能や歌舞伎といった純和風のものが、外国人から見る代表的な日本の姿と、我々は思いがちだが、すでに外国からの影響や、それを独自に発展させた新しい日本の姿、もしかしたら日本国内でもみんなが理解できるとは言いがたい日本の姿が、海外、すでにフランスでは受け入れられていた。
それは20世紀というインターナショナルな時代を経て、再び生まれ変わっていった日本なのかもしれない。
私的震災体験話@
− 茨城県出身の女優・山口晶代さんが東日本大震災を綴ります −
地震当日…
2011年、3月11日、午後3時前に、東日本大震災が起きた。私は両国シアターXでの舞台本番中で、楽屋で出番待ちをしていた。 着物、カツラ、ドーランメイクで江戸時代の町娘の格好をしていた。
揺れが長く、いつもと違う何かを感じ、思わずカツラを取ってしまった。 「逃げなきゃ行けないかもしれない」と、思ったとっさの行動だったかもしれない。
楽屋のモニターには、揺れの中、本番を続けている役者仲間が映っている。 しばらく舞台は続けていたが、舞台監督の合図で舞台は途中でストップ。 舞台上にいた役者の一人が、客席に向かって、『一旦ロビーに避難して下さい』と声をかけていた。 その状況を楽屋のモニターで見ながら、楽屋をうろうろしていた私に、他の役者から『羽二重(かつらをつける時に、頭につけている紫色の布)で逃げるより、かつらつけていたほうが安全じゃない。 ヘルメット代わりになるよ』と言われた。 「そっか」と納得して、私はかつらを頭に戻した。
強い揺れはおさまっても余震が何度か起きた。 楽屋では、皆、それぞれだったが、ワンセグで地震情報を見ている人の近くになんとなく人が集まっていた。 その時、私の実家茨城県日立市は、東京よりかなり強い地震だという事を知った。 しかも、私の父の趣味は釣り。 両親は無事か、身内親戚は無事か、父が釣りに行っていないと良いのだけど…。 色々な事が頭を巡る中、舞台は再開した。
大半は帰ってしまったものの、客席に戻って来て下さったお客様が随分いて下さった。 再開した時、客席から『頑張れ!』と声がかかり、拍手がモニターから聞こえてきた。 皆、胸が熱くなっていたと思う。 無事に最後まで終わったが、舞台の途中、何度か余震があった。 照明がその度にぐらぐら揺れる中、最後まで見守っていて下さったお客様には言葉にならないような感謝の気持ちでいっぱいになった。昼公演が終わり、JRは1日運休という情報が入ってきた。 その間、私は数えきれない程、実家にメールと電話をしたが、繋がらず心配と不安がつのるばかりだった。 夜公演の中止が決まり、電車が止まって帰宅できない出演者は、ほぼ劇場に泊まった。 夜遅く、母から『皆無事です』と、メールが入った。 「良かった!」
その後、公演は翌日12日昼・夜、13日昼、千秋楽と、来て下さった貴重なお客様の前で、無事にやりきった。 舞台は二本立てで、一つ目の作品のタイトルは『ドモ又の死』、わたしが出ていた作品は落語の『らくだ』を元に作られた作品で、『眠駱駝物語』と言い、舞台上に死人役が出ている。 私の役は母親の死を告げに来る半次の妹役。 地震後に見て下さった方々には、それまで以上にシュールに感じられたかもしれない。 そして、私達出演者、スタッフ一同、本当に、本当に、生涯忘れる事の出来ない公演になったと思う。
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多くの被災された方々、行方不明の方々の事を思うと、今も言葉にならない現実があります。 でも、私は改めて、生きている事に感謝して、笑顔で生きて行きたいと思います。