TOPTalk : 対談

今号からミュージシャンの政岡玄さんが連続で登場 ♪

第一弾は、単独インタビューです!

政岡玄さん


◎政岡玄さんのプロフィール

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本名:政岡 玄(まさおか げん)
岡山県津山市出身。
1977年1月27日生まれ、水瓶座、AB型RH−。
剣道二段。
大阪外語専門学校卒業。
半年のサラリーマン生活後、ミュージシャンに転身。
現在、シンガーソングライターとしてライブを中心に活動。
千葉テレビ“アート夢ぽけっと”エンディングテーマ「約束」を作詞作曲。
2010年9月18日、ミニアルバム“Dreaming”全国発売♪

ブログ “政岡 玄★SOUL & ROCK!!” ≫

◇政岡玄さんからのメッセージ◇
 最初にこの場をお借りして、「東北関東大震災」に被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。  ボクもサイドワークで薬事関係に携わっているので、震災以後、連日、東京から東北方面への出荷量の多さで現地の大変さを身近に感じています。  だから、今は、そちらの仕事に全力を注ぎたいので、4月に予定していた銀座でのライブも延期しました。  ただ、チャリティーとして音楽活動は行い、被災者皆様への支援の輪を可能な限り広げて行きたいと考えています。  
これからも辛い状況に負けず、全国の人々と手を携え共に歩んで行きましょう。

 

今夜は、政岡さんと音楽との関わりについて語っていただきます♪

 
政岡玄さん

編集部(以下Q):
震災直後のインタビューですが、宜しくお願いいたします。
政岡玄さん(以下A):
こちらこそ、ありがとうございます。

Q :歌、音楽を最初に意識したのは、何時頃ですか?
A :津山の実家は明るい雰囲気でカラオケセットもあり、ユニークな親族揃ってのカラオケ大会もありました。 また、剣道の稽古の送り迎えの車中には、いつも何か音楽が流れている環境でした。

Q :親族以外の前で歌い始めたのは?
A :今だから言えますが、小学校の低学年の頃、外食後、父に連れられて行ったスナックで近所のオジさんと、ジュースを飲みながら、よく歌合戦をしていました(笑)。  子どもが歌うから、お客さんは笑顔。店が盛り上がって楽しかったですよ。

Q :当時、歌った曲は?
A:歌謡曲ですね。レパートリーは多かったです。 中でもボクが歌ったのは、石原裕次郎の『夜霧よ今夜もありがとう』、オハコは河島英五の『時代おくれ』、これは、どう考えても父の影響ですね(笑)。

政岡玄さん

Q :濃い、その流れでギターを弾き始めたのですか?
A :いいえ、ギターを意識したのは中学時代。その頃、テレビ番組『イカ天』の影響で時代はバンドブーム。 先輩のバンドを手伝ったりして、それなりに動いていましたが、決定的な要因は…

Q :要因は?
A :中学2年の時の失恋です(笑)。 初恋に破れ、生まれて初めて女性で心が傷ついた日の夜でした。 茫然自失、ボーッとテレビを見ていたら、キリストみたいな人が凄くカッコ良くギターを弾いていたのです。  そんな番組は、津山では珍しかったので、思わず引き込まれて見続け、気が付けば一晩で失恋の痛手は癒え、そのミュージシャンに夢中になっていました。  それで翌日、ミュージシャンのうる覚えのイメージを抱き、CD屋へ直行、彼を探し出しました!

Q :誰?
A :エリック・クラプトンでした。 そこでギターをやろうと決めました。

政岡玄さん

Q :それで、そのまま音楽方面へ?
A :そうではありません。 ボクは岡山県内でかなり剣道が強かったので、特待生としてスポーツ系が強い作陽高校に進学。  音楽なんて考えられない厳しい世界で、とにかく高校時代の三年間は剣道漬けの毎日でした。

Q :
音楽と再会するのは?
A :高校の部活も終わり、友人の卒業ライブを見に行った時でした。  その演目、スキット・ローのバラード“I remember you”を聞き、ギターも良かったので、もう一度自分でも弾きたくなり、再開を決断。  ギター片手に大阪の専門学校に進学しました。

Q :大阪生活は何年、印象的な出来事は?
A :約2年半です。 2年間は語学学校だったので、文化祭等でライブを行い、外国人講師に『ギター・歌、ウマイ!』と、誉められたのは嬉しかった。 卒業後、建築関係の営業職に就きましたが、肌に合わなかった。  そんな時、祖母が他界。 生まれて初めて親族の『死』と向き合い、馬鹿みたいですが、人は亡くなると本当に動けなくなることを実感。 それで、このままではいけないと思い、仕事を辞め、真剣に音楽を志しました。

政岡玄さん

Q :その後は順調でしたか?
A :いいえ、仕事を辞めたことで友人からは夜の誘惑も多く、親から『絶対、反対!』と告げられ、勘当に近い状態になりました。

政岡玄さん

Q :その状況をどうやって克服したのですか?
A :音楽関係の友人からの話で広島に働きながら、音楽もできる店があると聞き、大阪を出て岡山を通り越し、広島に向かいました。

Q :それで?
A :噂の店はJAZZ志向だったので、ボクとは合わず、夜、コンビニでバイトして、音楽を模索する日々が続きました。  しかし、その後、広島では有名な伝説的ライブハウス“HIDE AWAY”を知ってオーナーの徳さんと出会えたのは幸運でした。  初めて、飛び入りセッションに参加、ソロ演奏で拍手をたくさん貰った月曜夜の“BLUES JAM”の情景は、今も鮮明に心に焼き付いています。  短い期間でしたが、広島時代は昼夜を問わず、音楽方面では充実していました。 あの経験が、現在のボクの音楽の基礎を築いたと思います。  親がボクを許し、認めてくれたのもあのHIDE AWAYのステージでした。

Q :東京へ来たのは?
A :最初から、目標は東京でしたが、HIDE AWAYで知り合ったミュージシャンに誘われて上京したのが2001年5月でした。  以後、高円寺の“JIROKICHI”を軸にBlues & Funk & Rockをテイストにしたグループ“Clover Rail Stone”で活動開始。  2003年9月からはソロ活動も開始、現在に至っています。

政岡玄さんと宮島作品

Q :さて、最後の質問です。宮島永太良さんと知り合ったのは何時頃ですか?
A :2004年か05年頃、あるイベントで顔を合わせたのは初めてでした。  それが縁で、Jトリップで演奏したり、お互いのイベントを訪ね合ったりしています。  昨秋には、上海の展覧会へも同行しました。 宮島さんとは、同じ巳年でAB型だから、波長が合うのかもしれませんね(笑)。

Q :今夜は玄さんの極私的音楽史を聞かせていただき感謝♪
ありがとうございました♪

次号、宮島永太良との対談へ続く…

by Sekikobo
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