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アートが気になるインタビュアーが宮島永太良を探る!

 

「宮島永太良研究」第19回 絵と詩

=アートが気になるインタビュアー/A=宮島永太良

:では、前回話題に挙げた2点の作品「生気あふれるガイコツ」と「仰天」は、宮島さんによる詩もつけられているので紹介したいと思います。

 

《 生気あふれるガイコツ 》


生気あふれるガイコツ

「明日は誕生日だ」
「おめでとう!お祝いに美味しいケーキをあげよう」
「ありがたいけど遠慮しとこう。甘いものばかりじゃ体によくないからね」
「そうか、じゃあ代わりに歌を贈ろう」
「それは嬉しい。でも思いっきりハードなのにしてくれ。ソフトで優しい歌を聴いていると、このまま死んでしまいそうだ」
「そう思った時、君はすでに死んでいる」
「!?」
「まあいい。ご希望通り、ハードな曲を奏ろう」
「素晴らしかった!僕は今日、君のハードな素晴らしい音楽を聴いて、いつ死んでもいいと思ったくらいだよ。明日からはもう怖いものは何もないさ」
「それはよかった!」
「これからも躓いた時は、いつでもここに来ればいいよ。誕生日のケーキよりも甘くて、三途の川の急流より激しい調べが、いつでも君の心と体を奮い立たせてあげるだろう」
「ありがとう。この音と景色さえ身に焼き付けたら、何が起きても怖くはないよ」

 

 

《 仰天 》


仰天

考えてみれば、この世もかなり「高く」なってきたもんだ。人が多くなったということか。あるいは同じような所にしか、人は行かなくなったのか?
その昔は気楽だった。人が増えればその(占有地)(支配地)は横に広がり、賑やかな場所が多くなっていったのだから。
しかしある時期から、縦に伸びるようになっていった。この世のバランスを考えた時、縦というのは少々危なっかしく見える。それに外から見ていると、あそこに人がいるのは大変怖い!このまま行くと不安になる。まさかとは思うが、やがてその身を支えきれずになんてことには。
この杖が届くうちは、まだ心配ないのだが。

 

 

:タイプの違う2つの詩ですが、宮島さんは絵と詩、どちらを先に作られたんでしょうか。
:2点はどちらも絵が最初です。絵の背景にある物語をあらためて文字にしてみようと思い書いたものです。

:「生気あふれるガイコツ」の方はちょっと難解だったように思いますが。
:これはあまり良い方法ではないかと思いますが、あの絵のミステリーさを表現するため、わざとわかりにくい詩の真似をしたと言えます。この世にはどう読んでも理解できない謎の詩がたまに存在しますが、そうしたものを自分でも書いてみたいと思いました。

:対して「仰天」の方はだいたいわかりますね。人口密集の都会の中で高くなりすぎている建築物を、仏様(ここでは地蔵菩薩)が憂いている場面でしょうか。
:まさにそうです。かつて、ある学者が、人類の歴史において、人が増えれば住居は横に広がっていたが、20世紀に入ってからは、横はいっぱいになり、縦に広がるようになった(つまり建物の階数が上にどんどん増えて行くようになった)と言っていたのが印象に残りました。この絵もそんな、本来不自然な人の日常を、憂いながらも仏とともに肯定していかざるを得ないというテーマをもっています。

:「仏とともに」というところが宮島さんらしい考え方だと思いのですが、制作時、さらには毎日の生活において神仏は意識されるのでしょうか。
:かなり意識しています。やはり人間の生命、とくに死に向かっていく状態、さらには死の後の状態は、神仏に頼るしか考えられないからです。

:やはり「生」と「死」というテーマは大きく存在するのですね。
:私は死についてはかなり考えている方だと思います。自分自身の死というよりは、一般的な死についてです。死といえば、人間の最も大きなテーマであると言っても良いでしょう。
なぜならば、死んだことのある人がいないからです。でもこの世にいる人間、生物は致死率100%なわけで、重大なテーマと思えないはずがないのです。さらには死後の世界というと、どこまで続いているかわからない宇宙のどこかにあると、考えるのも自然かもしれません。

:「宇宙のどこか」と考えると、天国などと言うより、死後の世界も身近に感じますね。
:こうした宇宙的なメッセージ、仏教的なメッセージを描いているからでしょうか、昔ある人に、「あなたは親御さんのどちらかを早く亡くしていないか」と聞かれたことがあります。今現在、両親とも健在なので、もちろんそれは間違いでしたが、おそらく、親を亡くした人の「天への叫び」に近いものを、作品の中に感じたのかもしれません。

:宮島さんの考える死生観というもの、作品から読み取れたのでしょうかね。
:先般から仏教の話を多くしてきましたが、仏教に限ったことでなく、どの宗教でも人間の死を考える事は大きなテーマであるといえるでしょう。おもしろいのは、仏教では死んでもまた生まれ変わるという概念があるのに対し、キリスト教では生まれ変わりの概念をほとんど聞きません。それは、聖書の黙示録によるものかとも思います。

:有名な「黙示録」ですね。
:黙示録は新約聖書の最終章であり、この世の終焉を語っています。その際、今までこの世で生きた人が全員神に呼び出され、あらためて神の世界(天国)に行けるか、地獄に落とされるかの「最後の審判」を受けるというものです。その際の人数たるや、天文学的数字になるのは予想できますが、死んでももう一度呼び出しを受け、審査されるわけですから、生まれ変わって別な人間になるというのは発想外でしょう。一方、輪廻の思想のもと、生まれ変わりが語られる仏教では、「祖先がまた素晴らしい人間になれるように、あるいは人間界よりもっと高い所へ行けるように」と願って供養しようということになるのだと思います。

:いずれにしても「死」を無視しては考えられない世界ですね。


  

 

  
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