原雅彦さんが「描く個人史」を語る! 前編
◎原雅彦(はらまさひこ)さん プロフィール
アクリル画家、建築模型製作者。 Meets Art Clubメンバー。 1958年1月3日、福岡県嘉穂郡生まれ、山羊座、O型。 1980年 成蹊大学工学部卒業。 *主な活動履歴 2013年 ぎゃらりー喫茶「なよたけ」で初個展 2014年 「花まつり Vol.11」に参加 2014年 NEKOISM・ネコイズム・猫主義 vol.1st 入選。 2016年 平成27年度「近美関東美術展」入選。 「帆船(横濱)」奨励賞受賞。 facebook ► |
原雅彦さん、子ども時代から絵との関わりを語る♪
月刊宮島永太良通信編集部(以後M):今日はよろしくお願いします。
最初の質問です。
どんな子ども時代を過ごしていましたか?
原雅彦さん(以後H):小学校入学前に福岡県から、神奈川県の海老名に住む祖母を頼りに越して来たので、九州の記憶はかなり薄く、風景で一番覚えているのは赤土の坂道です。
加えて、お金持ちの隣家に同年代の友だちがいて、母子家庭でカギっ子の私は毎日のように、彼のおもちゃで仲良く遊んでいました。
3歳上の姉もいたのですが、あまり構ってもらえなかったかな。
M :海老名の小学校ではどうでしたか?
H :学校は嫌いではなかったけれど、体育の授業は苦手、勉強もあまり好きではなかったけれど、理科は得意でした。
だから、毎号買っていた小学生向け雑誌「理科と科学」は岩石などの不思議な付録も含め、発売が楽しみでした。
M :図画、工作は?
H :図工の授業は大好きで、成績はずっと「5」でした。
M :絵は描き始めていましたか?
H :はい、自分の楽しみのために描いていました。
M :絵に関する思い出があれば、教えてください。
H :何年生の頃か忘れてしまいましたが、走る蒸気機関車を描いた時、母も笑顔で褒めてくれたし、先生を含めて多くの人が褒めてくれましたので、気を良くしました。
M :どんな言葉で褒められたのですか?
H :口々に「蒸気機関車の煙がリアルでうまい!」と言われたのを、よく覚えています。
M :蒸気機関車のメカニックに臨場感を加えた作品かな。
今の原さんの作品にも通じ、その雰囲気を感じますね。
他にはどうでしたか?
H :「あしたのジョー」などアニメのデッサンを、4Bや6Bの鉛筆で描いていました。
それから、小学6年生の時にグループサウンズに夢中になって、エレキギターが欲しかったけれど、そんなワガママを母には言えず、長さ約20cm、本物そっくりのギターを自作したのは良い思い出です。
これも、褒められました。
M :アート関係は褒められてばかりでしたね。それ以後は?
H :高校生時代に油絵を自己流に描いていましたが、その作品を見た美術の女性教師にルノアールの画風に似ていると言われたのは、印象に残っています。
M :先生からかなりの高評価ですが、好きな作家とか興味あるアーティストはいましたか?
H :いいえ、自己流が基本で自分が楽しめれば良いと思っていたので、他者にはあまり惹かれませんでした。
ただ、高校時代に指摘されたルノワールが好きになりました。
M :作品も褒められ、描くのが好きだったのに、大学受験時も美大へ進もうとは思わなかったのですか?
H :はい、絵はあくまでも趣味の世界と考え、将来は、それ以上に好きな自動車関係に進みたくて工学部に入り、大学卒業後には、厚木にあった自動車部品メーカーに就職しました。
M :そんなに車が好きだったのですか?
H :はい。
大学進学してすぐ、母は無理をしたと思いますが、流線型の美しい車セレステを買ってもらい、以後、私は黙々とその車をイジっていました。
既に手元にありませんが、夢に出てきます(笑)。
M :部品メーカーでは、どんな仕事をしていたのですか?
H :自動車部品の設計開発です。
最初はエアコンのコンプレッサーの開発をしていましたが、耐久室にこもって実験していることが多かったです。
以後も開発に携わり、最後はABS(アンチロックブレーキシステム)に関わっていました。
M :部品メーカーに勤めている時、絵は描いていましたか?
H :「プチ絵」は描いていました。
それで2000年頃に横長の風景画を描くレオナルド・ウェーバーを知り、それに惹かれ「ひまわり畑」を描きました。
あれが私の横長の原点。
その後、偶然デパートでレオナルド・ウェーバーのカレンダーを見つけたので、それからは毎年購入して楽しんでいます。
M :では、これまで最も影響を受けた作家はレオナルド・ウェーバーになりますか?
H :そうですが、あと一人、俳優で画家の榎木孝明さんがサッと描く絵も好きで、かなり影響を受けています。
M :ちょっと話がズレますが、原さんは建築模型の製作者でもありますが、それを始めたのは部品メーカーに在職中の頃ですか。
H :はい、1998年に我が家を新築するにあたって住宅メーカーが100分の1の模型を作ってくれるのですが、それでは部屋の中のレイアウトができないので、自分で3Dの模型を作ったのが最初でした。
以後、同僚や上司が家を建てる度に作らせてもらい、最終的には在職中にバルサ材で30軒ぐらいは作りました。
少し話は戻りますが、レオナルド・ウェーバーを知ったのも、模型を作った上司のお宅で彼の作品を初めて見たからで、模型と横長の縁は感じます。
M :部品メーカー退職後、建築模型の製作を本格的に始めたのですか?
H :いいえ、バルサ材ではなくスチレンボードを使ったしっかりした模型を制作したかったので、2010年に建築模型士になる通信教育を1年間受け、腕を磨きました。
M :原さんのお話を伺っていると、モノづくりがお好きですね。
H :はい、子どもの頃から車も絵も建築模型も、間違いなく自分に関わるモノづくりは大好きです。
M :前半、最後の質問です。 なぜ部品メーカーを辞めたのですか?
H :一言で表現するのは難しいですが、自分の限界も感じていたところにリーマンショックが重なったからですかね。
本当に人生色々です(笑)。
つづく