☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありませんが、これまで歩んで来た道のりを宮島永太良が思いを込めてほんの少し振り返ってみます…
第2回 小田原南町へ
住み慣れていた(であろう)生家を立ち去るのは、昭和42年のことである。 小田原駅西口は都市開発されることとなり、付近住人には立ち退きが告げられた。
駅の前に迫っていた崖のほとんどは崩され、駅前広場、ロータリーが企画され、今の小田原駅西口の景観にいたる。 東海道新幹線の開通、新幹線の小田原駅オープンから3年ほど経ってのことだ。 「いざなぎ景気」とも言われた好景気時代だからだろう、当時の開発を担当した民間業者は、住人たちにかなり好条件で立ち退きを依頼したと聞いた。 そのため、小田原市内でも住 みやすいと定評の、海岸近くの住宅地に新居を構えることができた。
「お花畑」「西海通り」などの愛称がある場所で、江戸時代には小田原城に勤務する武士が大勢住んでいたという。
現在の小田原市南町2丁目で、その新居でも、引き続き祖母が主人であった。
また、現在「小田原文学館」として存在する母屋が2軒隣にあったが、当時は老女と家政婦の二人住まいの民家だった。
結果的に、この家には2歳から26歳まで住むことになり、これまでの半生のうちでも最も「我が家」として存在感の大きい場所になっている。
たとえば今でも、夢の中で家に帰った場面、家で過ごしている場面、などが出てくると、決まってこの家なのである。 現在この母屋は解体され、老人向けのグループホームとなっているが、いまだにこの家の面影が現地から抜けないのも不思議である。 またこの家の特徴は、仏壇を中心に間取りが組まれたことだ。 生前、仏教に熱心だった祖母が、檀家をしていた寺の住職に、設計段階から風水的なことも交えて相談していたのだという。 そうしたこともあり、我が家は一般的な家庭に比べ、仏教的な行事が比較にならないほど多かった。
この家に引っ越して初めて不幸があったのは、引っ越して一年もしない、昭和43年5月だった。
前の家から一緒に住んでいた大伯母(祖母の姉)が癌で亡くなった。
70歳だった。その当時かなりの老人に思えたが、現在で考えればまだかなり若い歳である。
地元でもかなり名のある日本舞踊の師匠だったのだが、幼い頃の私はそんなことを知る由もなく、よく遊んでもらっていた。
記憶に残っているのは、明治の頃の流行歌らしい自転車乗りの歌を教えてもらったことだ。
(その歌は後年、シンガーソングライターの故・高田渡さんが、自作曲「自転車に乗って」の導入部としてレコーディングしている)
明治30年生まれの大伯母と接したことは、時代の証人の言葉を知る上でも、大変貴重あることだったと思う。 日本舞踊の弟子も多かったようで、葬儀にも多くの人が訪れたのを、子供心に覚えている。因みにこの葬儀は自宅で行ったが、このころ大抵の家は自宅で葬儀をやっていた。 商店を営んでいる家は店舗を葬儀会場にしたりもしていた。
引っ越して9ヶ月目の葬儀。そして前の家で私が誕生したのは、引っ越しの2年4ヶ月前。 つまり前の家は私の誕生とともに終わり、新しい家は大伯母の死去とともに始まったような形になった。 この亡くなった大伯母に関することで、不思議なことがあったのを思いだす。 時期からいって三回忌の法要の相談を家族皆で仏壇の前でしていた時だった。 一匹の蝶々が部屋に入りこみ、仏壇の周囲を離れないのだ。 子供心に、大伯母の魂が乗り移ったのでは、と思った