TOPTalk : 対談

2月から連続で新宿のJAZZ SPOT Jのバードマン幸田さん登場!

 
 JAZZ SPOT J

◎バードマン幸田さんプロフィール

幸田さんspace
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本名:幸田 稔さん
東京都豊島区出身。
1946年3月28日生まれ、牡羊座、B型。
早稲田大学政治経済学部卒業。
10年間サラリーマン生活を送った後、
1978年に『JAZZ SPOT J』のオーナー。

『JAZZ SPOT J 』 新宿区新宿 5-1-1 ロイヤルマンション B1
 

今回は、ジャズとの歩みを語っていただきました。

 
幸田さん

編集部(以下Q ):
ジャズとの出会いからお願いします。
幸田さん(以下A):
中学3年生の時、近所に住む若奥さんに映画へ誘われて日劇へ行きました。 当時、日劇の構成はジャズの生演奏と映画が見られ、私は初めて、ジャズライブと出会いました。 でも、知識が全くなかったので、渡辺貞夫さんをはじめ素晴らしいメンバーがいたのは後で知りました。


Q :
初ジャズライブはどうでしたか?
A:凄い大人の音楽を聴いてしまった感動と興奮で、別世界を見た感がありました。

Q :高校入学前にジャズの洗礼?
A:そうです。日劇以後、ジャズが強く心に残り、スイングジャーナル等の雑誌を読みふけっていました。 ページを見ながら生演奏を聴いた自分を再認識。 当時、アートブレーキーとジャズメッセンジャーズが初来日。 とにかく時代も良く、高校に進学したらブラスバンドに入ってサックスを吹くと決めていました。 そして、高校1年で渡辺貞夫さんの演奏を再び聴き、私のジャズ人生が始まりました。 次の年には、アートブレーキーとジャズメッセンジャーズが再来日。 彼らの演奏を大手町のサンケイホールで聴きましたが、肌の黒い人を見るのも初めて、その凄まじい演奏に背中がゾクゾクして鳥肌が立ち、世の中にこんなに強烈な音楽があったのだと、本当にぶっ飛びました(笑)。

幸田さん

Q :完全にジャズへ傾倒!?
A:はい、加えて当時は大橋巨泉さんが司会をする『大学対抗バンド合戦』がラジオで人気でした。 それに出演していた早稲田のモダンジャズ研究会の演奏がカッコ良くて、そこに惹かれた私は、早稲田大学への進学を決め、ソロバンが得意で入った商業高校にあった唯一の進学クラスへ進みました。

Q :入試はどうでしたか?
A:当時、大学入学は一般的でなく、浪人なしの条件で親から許しを得ました。だから、背水の陣。 しかし、ジャズの洋盤で養った英語力は素晴らしく、希望校に入ることができました。

Q :憧れのジャズ研はいかがでしたか?
A:ジャズ研に入り、レギュラーを2年生で獲得。演奏旅行で全国行脚、『早慶バンド合戦』なんて公演を日本各地で行いました。 今思えば、音楽文化への渇望から、何処の会場も女子学生を中心に超満杯。 皆がジャズを楽しんでくれ、ギャラも破格でした。そのマネージメントと司会を担当していたのが、同年齢だけど学年はひとつ下のあのタモリです。 彼は、今では『J』の取締役でもあります。

Q :大学時代の印象的な思い出をお願いします。
A:色々ありましたが、2年生の時のアメリカのバークリー音楽院の留学を終え、渡辺貞夫さんが帰国。 実は高校時代から少し縁があった私が、電話で『早稲田祭』での演奏をお願いしたら、快く応じてくれ、小さな教室で演奏をしてくれました。 私はサックスを担当していたので加われませんでしたが、ジャズ研の仲間との共演もあり、参加メンバーの人生が大きく変わった素晴らしい1時間半でした。

JAZZ SPOT J ステージ

Q :ジャズオンリーで卒業はどうでしたか?
A:実は、繊維会社に就職も決まっていたのですが、卒業を目前に控え『外交史』の単位が足りず追試を受け、結果待ちの状態で演奏旅行へ出掛けることになりました。 でも、気が気ではありません。 そこで、担当教授に『会社の研修に出掛け、もし単位がとれないと就職が駄目になると』と、嘘の内容と切実な思いを込めた往復はがきを書き、合否を問いました。

Q :
結果は?
A:どう考えても往復はがきはひどいけれど、1週間後にやっと返事がありました。

JAZZ SPOT J LIVE MENU

Q :教授からの言葉は?
A:追試の結果は駄目、また出席日数も大幅に足りず、どう考えても無理。 でも、君の将来を考えて単位をあげます…。

Q :良かったですね。
A:万々歳でした(笑)。時代もありましたが、膨らみのある教授でした。

Q :それで就職?
A:大手の繊維会社に10年間務めました。

JAZZ SPOT J内部

Q :その間、ジャズとの関わりはどうでしたか?
A:就職したら身も心も会社に捧げる時代です。 楽器も後輩に譲り、一所懸命仕事をしました。 でも、理解のある組織だったので、会社行事がある時にはライブをさせてくれました。

Q :ジャズとは繋がっていましたね。
A:そうです。 27〜28歳ぐらいの頃、海外担当になり、アメリカ、カナダ等北米へ3週間出張に出掛けました。 そして、ニューヨークでジャズ研時代の友人、スズキヨシオと再会。 彼は渡辺貞夫さんと早稲田祭での共演が縁で、渡辺さんのバンドに参加して渡米。 ニューヨークで出会った時には、なんとあのアートブレーキーとジャズメッセンジャーズの一員となって活躍していました。 それが縁で、1日だけあった休みの日にアートブレーキーに紹介され、私は夢心地でした(笑)。

キャンドル

Q :ジャズとの縁は濃いですね。
A:強烈な体験でした。 それで、30歳を過ぎたら、博多からタモリが出て来て大活躍!私は営業成績も良く、会社勤めも悪くはなかったけれどニューヨーク体験やタモリを考えたら、自分も思い切って好きなジャズの方向へ進みたいと考える様になりました。

Q :それで、JAZZ SPOT Jをオープンするのですか?
A:いいえ、違います。実は、『J』と言う店が同じ場所にありました。 そこは、サックスを始め色々な楽器をこなすマスター経営するお洒落なライブハウスで、私はジャズ研の仲間に紹介され、20代中頃から客として通っていました。


Q :
それが何故?
A:マスターが、夏に海の事故で亡くなってしまったのです。 それで、奥様が、自分では出来ないけれど誰かこの店を継いでくれないかと望まれ、数人に声を掛けたそうです。 その情報が私にも届き、個人的な気持ちに加えてOB会の幹事をしていたので、仲間たちが気兼ねなく集まり、演奏できる場所も確保したくて、結果的に私が挙手。

幸田さん

Q :スムーズに進みましたか?
A:とんでもない!家族には知らせず、友人に相談しても大反対。 でも、私の意思は固く、難関を乗り切り、タモリを始め皆の協力を得て1978年10月20日に我々の『J』がオープン。 ところが、開店から1年数ヶ月後、原因不明の火災で店は全焼、焼け残ったのはトイレだけ……

Q :
……
A:その窮地を救ってくれたのが、当時、常連でタモリと親しかった漫画家の赤塚不二夫さんです。 失意の私を激励、再建委員長になり、皆の力を結集。 その善意で2ヶ月に『J』を再開することができました。 それから、色々ありましたが、良い空間を保ちつつ現在に至っています。 まだまだ話は尽きませんが、次の機会を楽しみに、今夜はここでお開きにしたいと思います。

Q :ありがとうございました♪

by Sekikobo
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