アートが気になるインタビュアーが宮島永太良を探る!
「宮島永太良研究」第3回
Q=アートが気になるインタビュアー/A=宮島永太良
アートが気になるインタビュアー(以後Q):不思議なパワーから抽象画を生み出したといえる宮島さんですが、その後はどんなふうに展開して行きましたか?
宮島永太良(以後A):絵具と筆を使って描くトレーニングを続けると同時に、美術ライター時代に取材で回った銀座などの画廊をできるだけ多く見て歩きました。
そんな中、作家さんやコレクターと知り合う機会も大変多かったのですが、そうした方々に積極的に作品を見てもらい、また意見もいただきました。
今思えば身の程知らずな行動だったかもしれませんが、そうしたコミュニティにできるだけ早く入りたいという思いでした。
ただそんな時「美術の雑誌のライターをやっている」というと、それだけで話を聞いてもらいやすいところもあり、特権的に感じることもありました。
Q:皆さんの意見はどうでしたか?
A:厳しい意見もあるにはありましたが、大体の方は「この調子で自由にやっていってはどうか」という意見でした。
やはり影響を受けた同世代の作家もそうでしたが、発想も含め、自由な表現であることもこの世界では重要なんだとわかってきました。
Q:そうした経験を通して、自分の作風というものに確信を持てた機会はありましたか?
A:32歳の夏、房総半島へ一人で日帰りの旅に行ったことがありました。
なぜ房総半島だったか決定的な理由は思い出せませんが、何かインスピレーションを感じたんだと思います。
九十九里の端の方まで行ったのですが、それまで見たことなかったようでいて、しかも懐かしくもあるビジュアルが頭に浮かんだのです。
房総の海の景色の影響もあったかもしれません。
とにかく、そのビジュアルと同時に全く新しい世界がやってきたような思いでした。
それを家に帰って早速絵にしてみたところ、迷わずすいすいと筆が進み、自分独特の抽象画が確立した気配を感じたのです。
Q:どんな作品になったのですか?。
A:「風が通り抜ける街」とうタイトルで、ライトブルーを基調とした、そんなに大きくない作品ですが、今でも自身で所蔵しています。
また、そのビジュアルは今でも自分のスタイルの一つとなっていて、たびたび似ている作風が登場しています。
作品「風が通り抜ける街」
Q:そうしたものを誰かに見せる、あるいは発表するというような機会はありましたか?
A:某画廊主催のグループ展に初参加しました。
それはその画廊に予定の入っていない期間が続いたため「休ませないため」を強調した、変わったグループ展でした。
学生時代を除けば、これが初めての画廊への出品でした。
また初個展にもそのままつながるようなこともありました。
点数制限はなく、展示幅寸法だけが各自に割り当てえられた形だったので、ここぞと、ばかりにたくさんの作品を出してしまいました。
Q:どんな作品を出したのですか?
A:作風も全く違うものばかりでした。
前述のような抽象絵画があると思えば、繁華街をモチーフにした描写的な絵もある。
ひいてはマルタの原型になったウサギのキャラクターまで、すでにここで出していました。
Q:宮島さんの初個展の時の「なんでもあり的」な状態が、すでにここで始まっていたんですね。
A:そうですね。
また、出品をしたことにより、新たなアーティストの知人も多くできました。
ほとんどは年齢的にも先輩ばかりでしたが。
Q:もしかして宮島さんが一番若かったのですか?
A:はっきりは覚えていませんが、おそらく下から1〜2番だったと思います。
この画廊ではその後も同じコンセプトのグループ展(休ませないため)が行われましたが、さすがにもう出しすぎはまずいと思い、何かインパクトのある作品一点を、と考え、入れ替え可能の絵を思いつきました。
Q:絵で「入れ替え可能」とはどういう状態なのでしょうか?
A:画面を本当に四つのパーツに分け、それぞれに取っ手をつけて、動かしながら入れ替えられるようにしたんです。
お客さんにもやってもらうようにしたのですが、この作品は大変好評をただきました。
これと同じタイプのものを数か月後の初個展でも出したのですが、それを見たお客さんで「あなたが初個展を開くというので何か作品を買ってあげようかと思ったが、あの並べ替えの作品だけは買おうと思わなかった。
なぜなら、並べ替えなどしている最中、頭にあたって脳震盪でも起こしたらたまったものではないから」と言った人がいました。
私はこの時「脳震盪」という言葉がひっかかり、あらためて平仮名で「のうしんとう」と書いてみたら、並べ替えると「うどしのうん」つまり「卯年の運」となったのです。
そこで次にまた同様の作品を作った際(その時がちょうど1999年卯年でもあったので)それをタイトルにしてしまいました。
Q:来客の一つ一つの言葉も、宮島さんにとっては全て次なる制作のヒントに繋がって行くんですね。しかしながら、そうした作品にいたった源流はあったのでしょうか?
A:「メビウスの卵展」という展覧会で、スタッフをやった経験があったからだと思います。
主に子供や障がいを持つ人たちのために、科学的な作品等を見せる、という異色の美術展で、私も以前から見ていたので知っていましたが、そのスタッフ募集をあるところで見て申し込んだら、偶然採用してもらえたんです。この展覧会は作品そのものもバリアフリーを取り入れ、また参加型の作品も多くある興味深いものでした。
Q:そこではどんな仕事をされたんですか?
A:お客さんに作品の説明をするのはもちろんですが、障がいを持った方のエスコートも仕事の一つでした。
同じ大学にも、障がいを持った友人もいたので気持ち的には慣れていましたが、例えば目の不自由な人をどのような角度からエスコートしたらよいか等、初めて学んだことも大変多かったです。
展覧会の打ち合わせでは、アドバイザーと言う形で、さまざまなハンディーを持っている人たちが参加していたのも印象的でした。
入れ替え可能な絵の発想なども、ここでの参加型展示を見た影響が強くあったのだと思います。
Q:そうした体験が、宮島さんの後々の制作や発表のいたるところに影響を及ぼしているわけですね。
A:自分の内なる発想も創作の原点ですが、外からの刺激によって、それらが応用されて行くのだと思います。