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Friendsには、ジャンルを問わず宮島永太良の友人知人が登場!
毎月、ショートインタビュー、コメント、活動予定をお伝えします。
 

AQRAさん、宮島永太良「和光大学」同窓生特別対談♪

 
AQRAさんと宮島永太良
 

・AQRAさんプロフィール

AQRAさん

アーティスト。
1960年9月19日、熊本県熊本市生まれ、乙女座、B型。
    二人兄弟の長男。
1983年 和光大学人文学部芸術学科卒業。
1988年 銀座ギャラリー・オカベで個展。
    以後、個展、グループ展多数参加。
1998年 新潟県(株)福田組「感動創造美術展」で優秀賞を受賞。
現在、横浜在住。
ミーツアートクラブメンバー。
ArtQメンバー。

同窓生AQRAさんと宮島永太良が、母校/和光大学で語りあった!

宮島永太良(以後・M):今回は少し脇道にそれ、私たちの母校/和光大学での学生生活について話したいと思います。 まず私ですが、毎日が学園祭の雰囲気で、好きにコンクリートの上にコタツを置き入っていた学生もいたし、上野千鶴子さんが特別講義で来た時は、学食にビールがあるのを見て驚いていました。 学問的にも芸術系でイスラム研究、次が仏教、その次がキリスト教の順、他では考えられないユニークさだったので、妙に記憶に残っています。
AQRAさん(以後・A):確かアフガニスタン研究もあったね。 そして、学食にビールはあったかもしれないけれど、時間帯が夕方以降だったかもしれないな。 ただ、私の方が宮ちゃんより年上で、2人は学生時代がかぶっていないから、それは微妙(笑)。 でも、70年代の学生運動の名残がまだあり、機動隊の車がよく停まっていたのはおぼえているよ。

宮島永太良

M:確かにAQRAさんは先輩にあたりますが、何年の入学ですか?
A:1年間浪人して、1980(昭和55)年に入り、親のスネをかじりながら、大学生を4年間、卒業後の2年間は聴講生として和光大学に在籍していました。

M:どんな学生時代だったのですか?
A:1年生の時は、アメリカンフットボール部に入ったお陰で部活中心の生活でした。

M:アメフトは高校生の頃からですか?
A:それが違うんです。 アメフト部の先輩に入学式で私の体格に目をつけられて食事を3回奢られ、仕方なく入部しました。

初代学長の胸像

M:10代の若者に食事とは、簡単に断れない勧誘方法ですね(笑)。
A:アメフトの新入部員は5〜6人いて、1年間は我慢しました。 しかし、忘れもしません。 その年に福島で夏合宿があり、炎天下の厳しい練習、サンドバック等の用具運び、OBが来たらプロティンを山の様に飲まされる試練、正に地獄の日々を過ごしました。 また、当時はYMOのライディーンが流行っていて、今もそれを聴くと、あの灼熱地獄を思い出します。 とにかく合宿中は夜毎、新入部員が集まり脱走の相談をしていましたが、捕まる怖さがあり実行できなかった。 でも、その後、なんのために大学に入ったのかを熟考、結局1年で退部しました。

M:退部はスンナリ行きましたか?
A:いいえ、やめるまでには紆余曲折ありましたが、なんと退部できました。 それで思い出すのが、1年生にとっていた宮川寅雄先生の美術史序説の講義です。 美術界の裏話や暴露話が聴けて楽しい3限目でしたが、それが終わるとアメフトの部活。 その日は天国と地獄を味わいました。

M:私の時代に宮川先生はいませんでした。 芸術係は体育会系と正反対で先輩後輩の関係もないので、体育系にかかわったことがありません。
A:私自身、根本的に平等主義だから体育会系は本当にイヤでした。 当時流行のTV番組「ルーツ」の主人公の名で呼ばれ、こき使われ、練習終了後も残り先輩のユニフォームを洗濯しないと帰れなかったのです。 でも、退部して2年からは真面目に勉強に取り組んだのですが、そうしたら次は彫刻に引っかかってしまいました(笑)。

宮島永太良とAQRAさん

M:彫刻ですか?
A:芸術系の一貫で彫刻の講義があり、出席した時、「いくつかの素材で自由に作品制作をしなさい」と言われ、面倒臭かったので手早く好き勝手に作って5分で提出。 そうしたら、吉田芳夫先生に「皆は色々考えているのに、君は直感的に制作しているのがユニーク!」と褒められ、アメフトの次は彫刻にスカウトされてしまいました。 その後、「何時になったら絵を描くんだろう?」と自分でも考えましたが、何故かずっと彫刻に勤しみ、結局、大学在籍時は1枚も絵を描きませんでした。

M:AQRAさんは、絵を描くのが目的で当時の和光大文学部人文学科芸術学科に進学したのですか?
A:そうです。 でも、芸術学科に入学したら、ジャンルの垣根を超えて、油絵、日本画、彫刻、なんでもできる環境だったので、どこかで天に身を委ねている感覚が私の中にありました。

M:確かに色々な可能性を内在している大学でした。 でも、それは自分自身のプランがしっかりしていないとダメ。 また、実技だけじゃなくて、美術史とか、そうした方向もあるので、学芸員志望とか、アーティストではなく、そちらに変わる人もいましたね。
A:そんな具合だから、絵を描き始めたのは大学卒業後の26歳ぐらいからです。

M:えっ、彫刻する時にデッサンはしなかったのですか?
A:描くと言えば、鉛筆デッサンぐらいでした。 視点を変えれば、吉田先生と縁ができ、日当5,000円、酒付き、飯付きでご自宅の掃除人をする様になりました。 元々、吉田家は仏師から始まる彫刻家の家系なので、代々の作品がお宅に置かれていて、それらを見られるだけでも勉強になりました。

和光大学キャンパス

M:吉田先生の家は近かったですか?
A:西武新宿線の新井薬師です。 私は東林間に住んでいたので、通うのに1時間以上かかりましたが、楽しかったので苦にもなりませんでした。

M:掃除が終わったら先生とお酒を飲むのですか?
A:はい、私の本名が橋本幸典(ゆきのり)なので、夕方になると「お〜い、ハッサン」とか、当時の海老蔵に似ていたから「エビちゃん」と呼ばれると掃除やめ、テレビで相撲を観ながら飲み始め、柿ピー食べながら、奥さんの手料理を待っていました。 一学生が、本当に優遇されていました(笑)。

M:お小遣い付きで、自宅に招かれていたみたいですね(笑)。
A:でも、掃除人だけでなく先生の作品制作のお手伝いやモデルもやっていましたよ。

M:そう言えば、吉田先生制作の日本レコード大賞のトロフィーのモデルが、AQRAさんとの噂がありましたが、本当ですか?
A:残念ですが違います。 通い始めた頃には、すでに原型があったので私ではありません。 ただ、私がモデルになった坐像、顔、立ちポーズの作品は千葉県の鴨川の何処かにあるはずです。

M:その彫刻は一度見てみたいですね(笑)。 それにしても和光大学の同窓生でありながら、今まで未知のAQRAさんのユニークな個人情報を母校で知ることができ何よりでした。 今後ともよろしくお願い致します。今日はありがとうございました!

おわり

小田急線「鶴川」駅電光掲示板
 

(構成・撮影 関 幸貴)

「政岡玄ちゃんの音楽便り」第36回 特別企画「西日本豪雨を体験して…

みなさん、お元気ですか? 玄です!
西日本豪雨の災害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
皆さまの安全安心、早期復興を切に願っています。

豪雨当日のボクは地元消防団でもあるので、特別警報の夜は消防団で連絡取り合い河川氾濫に備え堤防の水門前で待機。 河川水位上昇がすごく、残り2m程。 夜の豪雨、足元も見にくく不安ではありましたが、地域の皆さんへの被害を最小限に抑えるため、町内会長さんも見回り、危険地域へ避難の声かけ。 20年程前に一度、浸水した地域もあり、皆さんは不安が隠せない様子でした。 その頃から河川の幅を広げる工事はしてあったと思いますが、河川の状況、雨量とダム放流量のタイミングをダムの方と町内会長と消防団部長が連絡取り合い、指示に従い水門を閉め、浸水した場所を通りかかる車の誘導と、危険な状況でした。

また、暗闇の中浸水した所を渡って来る人がいたので、溝などに落ちないように止めにいくと、男子高校生から「おじいちゃんの家が浸水しそうだから、土嚢を下さい」訴えられ、避難所も近くなので、家に備えていた土嚢袋に庭にある砂を入れ一緒に土嚢作り、消防団の仲間達と土嚢を置き、水は膝下でしたが床上ギリギリ。 その後、浸水している場所を警備しながら、午前2時半頃、見回りしていると雨量は少し収まり、浸水箇所の排水方法を少し変えると、浸水箇所の水はけが良くなり始め、気分も少し落ち着いて、状況を見守りながら朝まで待機、雨も落ち着いたところで一時解散。 帰宅して、ビショ濡れになった体にシャワー浴び、少し落ち着くと、自然と地域の皆さんにそんな被害がひどくならなくて良かったと、ふと少し安心感もあったのか涙がこぼれました。

少し仮眠をしてから、見回り中「ダムが出来ていて良かった。 あれがなかったら、被害がもっとあった」との声も偶然聞こえ、祖父の時代での賛否両論であった厳しいダム建設も良かったのではと、天国の祖父へ感謝を感じた日でもありました。 それから日を追うごとに、西日本での大きな被害があることを知り、地元岡山県も甚大的な被害がある事もわかりました。

ボランティア活動

その後、ボランティア活動のために岡山で最初に浸水し橋も流された所もある高梁市へ。 倉敷真備、総社など被害甚大なので自衛隊、消防隊が多く出動している事もあり、高梁市はボランティアの皆さんでの力で復旧作業を積極的に行っているそうです。 そして、今日は広島県境の山奥へ、土砂崩れにより、家を覆っている土砂をスコップで取り除く作業。なんだかんだと言っても、最後は人の力だなとつくづく思いました。

支援センターと外気温

炎天下の力仕事なので、男グループで一所懸命に熱中症にならないように作業。 建設会社の方が、崩れ落ちそうな大きな石を取り除きながら、安全を確保しながら、指示をしてくれるのですが、家のご主人などとジョークを交えながら、現場を和ませてくれたり、おばあちゃんからの暖かいお言葉だったり、家が潰れなくて本当良かったな…、とにかく復帰を目指して、みんなで奮闘!  若者達も頑張ってくれましたが、さすがに午後には少しばてたので、皆で励ましあいました。 そうしたら、ご主人から、「明日も来てくれませんか?」と、要請を受け、私が「了解です!」と応えるとご主人「政岡さん、来てくれるんだ。ラッキー!」と言われれば、男を見せる時だとある種の嬉しさを感じました。 帰り際、遠くまで手を振ってくださる姿が心に残り、明日への力が湧いてきました。

草刈り

また、作楽神社のお参り、皆さんと草刈り。 神様、守って下さり有難う御座いました。 「海の日」、水の女神様にもお参り、地域自主防災として真砂土が土嚢作りのためなくなったので運んだり、まだ激動の日々が続いています。 昼は沢山の汗。夜は沢山の涙を流された方々もいらしたと思いますが、ボクにはボランティアで新しい男塾仲間も出来て、また頑張ろうと決心。 この心境って、とても大切だと実感、感謝の一日を増やしていきたいモノで、ボクの歌の力の糧になる事は間違いないです。

そして、また、みなさんとお会い出来る日!
ボクの音楽で少しでも元気になっていただければ幸いです。

Love&Peace♪

(文・写真 政岡玄)

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