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音楽人/水谷啓二さんに宮島永太良がインタビュー 前編

 
 

水谷啓二(みずたにけいじ)さんプロフィール

作詞・作曲家、演奏家(サックス/フルート、ヴォーカル)
10名編成のファンクバンドK-FUNKを主宰、日本語によるリズム&ブルカース、
ファンクミュージックを東京・横浜・京都・大阪を中心にライヴ活動を展開。
M et D Galarie | エムエデギャラリー店主
1953年:京都市中京区の古美術商の次男として生まれる
1973年:大学在学中に結成したロックバンド「スパニッシュ・ハーレム・ナイト」で、アマチュアロックバンドコンテスト「A-ROCK」全国大会に出場。日本武道館のステージに立ち、最優秀グランプリを獲得。
1975年:同志社大学法学部卒業
1977年:ポップロックグループ「AIRZ」で東芝EMIからデビュー
1980年:作詞家として活動開始。もんた&ブラザーズに提供した「ダンシング・オールナイト」が、オリコン・シングルチャートで10週連続第1位を獲得。
2019年:東京・三軒茶屋にレンタルアートスペース+カフェ「M et D Galarie | エムエデギャラリー」をオープン。ギャラリーの夜の顔「KG Bar」店主も務める。
https://www.keijimizutani.com

 
 
 

水谷啓二さんと音楽の出会い♪

宮島永太良(以後Q):今日で水谷さんにお会いするのは3回目ですが、よろしくお願いします。では、最初の質問です。水谷さんはサックスを専門で演奏されているのですか?
水谷啓二さん(以後A):こちらこそよろしくお願いします。いえ、僕の楽器はサックスとフルートです。

:いつ頃から演奏しているのですか?
:同志社香里中学一年の新学期、音楽の先生が「夏が終わるまでに何でも良いから楽器を一つ演奏できるようにしなさい」と言う課題を出したので、僕は興味があったフルートを選びました。

:課題は生徒全員にですか?
:そうです。楽器はハーモニカでの何でも良かったけれど、せっかくなら吹奏楽部でフルートをやろうと思い、すぐに決めました。後になって分かるのですが、その先生は吹奏楽部の顧問で、部員を増やしたかったからの課題だったんです。結果、中学三年間はフルートをやりました。吹奏楽部は今でこそ凄く人気だけど、当時は男子校で部員は少なく、中高系列校なので高校生のコンクールに中学生も一緒に入って演奏していました。だから高校もそのまま吹奏楽部です。加えて当時のファッションリーダーがナベサダこと渡辺貞夫さん、ジャズが流行っていたので、私はサックスも演奏するようになりました。そして高校三年生の時、吹奏楽部の活動の傍ら仲間とジャズのコンボを始め、それが軽音楽に入るキッカケです。同志社大学進学後も軽音楽部に入り、そのままずっと音楽を続け現在に至っています。

 

:ジャズって言うと、ピアノ、ドラム、ギターなどもありますが、まず私もサックスって言うイメージがあります。前に調べたことあるんですが、ジャズも元を辿ればブラスバンドに行き着くそうですね。
:おそらくアメリカ南部ニューオリンズで、亡くなった方を埋葬しに行く時は悲しい音楽を演奏しながら墓地に向かい、帰って来る時は「死者は苦しい現世から解放され天国へ行ってハッピーになった」との解釈で、皆で陽気な音楽を奏でていたそうです。あれがジャズの元かな、そんな感じでデキシーから生まれ、それが大陸を北上して大都市シカゴで現在のジャズの原型になったんじゃないかと思います。

:水谷さんが音楽を始めるきっかけは家庭環境にありますか?
:もともと音楽は好きですが、特別、音楽環境に恵まれた家ではなく、オトナになった僕に向かって母が「なんで啓二に音楽の才能があったんだろう? あっ、そう言えば、ウチのお父さんは花街で芸妓さん相手に太鼓叩いていたわ♪」と言ったぐらいしか心当たりはありません(笑)。ただ小学校六年生ぐらいの時、大学生の従姉妹がいて、その人はジャズが好きで遊びに行くとニーナ・シモンとかをよく聴かされていました。そんな感じで音楽に親しみを持っていたんだと思います。

 

:好きな音楽の中からジャズを選んだ感じだったんでしょうね。
:そうですね。まぁ、高校生の私にとってカッコイイ音楽はジャズだったんでしょうね。大学に入ってもジャズをやっていたんですが、同時に知り合いがロックバンドを始め、プログレッシブ・ロックをやりたいのでサックスで加わらないかと誘われました。考えればロックの時代、あの「ウッドストック」の後で、女の子にモテそうだったのでメンバーになりました。そのバンドは「スパニッシュ・ハーレム・ナイト」と言い、ひょんなことから日本一のアマチュアバンドになってしまいました。だから、私のロックバンドのデビューのステージはなんと武道館なんです。その時の司会はかまやつひろしさん、審査員は内田裕也さんに矢沢永吉さんら、今考えても錚々たるメンバーでしたが、すでに顔見知りでもありました。そこから僕はプロになるのかな。どうなんだろう。プロになりたいとは思ったけれど、まだ漠然としていたのも事実でした。

:そのコンテストはいつ頃で、構成メンバーは何人でしたか?
:1973年で、ギタートリオに管楽器の僕を加えてメンバーは4人。僕はフルートとエフェクターを付けたサックスを吹いていました。当時、ロックに管楽器は珍しかったので注目されました。どこか繊細なイメージがあったのかもしれません。

:確かにロックでフルートは珍しいですよ!
:だから、今でもファンクやリズム&ブルースのセッションでフルート吹くと、「あっ、こういうスタイルもあるんだ」と嬉しそうに言われます。ロックバンド/ジェスロ・タルのイアン・アンダーソンもフルート、彼は現在70代中盤だけど、最近聴いてみると演奏がうまくなっていると感じます。

:歳を重ねてもうまくなっているミュージシャンもいるのですね。
:逆に下手になっている人もいますけどね。

 

:本当に人それぞれですね。では、ちょっと違う視点で音楽のことをお尋ねします。水谷さんの生家は京都洛中の古美術商と聞いていますが、美術面から音楽に影響を受けたと感じたことはありますか?
:僕の音楽のキャリアはアートの世界と切り離して考えられません。と言うのも、父の専門が文人画、応挙をはじめとした円山派や若冲などでした。高校生の時、それらを店でお客様にお見せする時に手伝いをするんですが、出しても出しても水墨の山水画しか出てこない。「どこが違うんだろう」と考える僕を尻目に、父とお客様は「あれは良いがこれは…」と語り合っているわけです。それで、高校生ながら「絵を観る審美眼は何だろう?」と考え始め、ある時、見せる絵の共通点は水墨、図柄は山水で掛け軸、要するに三つのコードしかないから、これを音楽に置き換えるとブルースだと考え、そこにメロディーやリズム、ビートとかを探すとそれなりに分かるので俄然面白くなり、音楽人/水谷啓二がビジュアルアート対峙する時の鑑賞法が誕生しました(笑)。

続く

 

(構成・撮影 関 幸貴)

 
 
 
 
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