TOPTalk : 対談

IZMIN、雨の湯河原で絵との関わりを語る…

IZMIN


◇IZMINプロフィール
画家
アメリカに拠点のあるSCBWI JAPANに所属
KS(志茂田景樹)アーティストクラブ所属
1956年:長崎県長崎市生まれ
1974年:長崎純心女子高等学校卒業
2008年:第21回 上野の森美術館「日本の自然を描く」展 入選
2009年:川崎市市民美術展 入選 
2010年:第23回 上野の森美術館「日本の自然を描く」展 入選  
2015年:クリエイティブメディア出版 絵本大賞 準大賞受賞 
2017年:現展 入選 
2019年:アートサロン入選

IZMIN
 

IZMINは幼い頃から画家志望


月刊宮島永太良通信編集部
(以後Q):今日は、IZMINと絵との関わりについてお聞かせください。よろしくお願いします。まず、描き始めたのはいつ頃ですか?
IZMIN(以後A):物心ついた頃から描いていて、大きくなったら絵描きになりたいと人に言ったのは、3歳の時です。

Q:かなり幼い頃ですが、誰に話をしたのですか?
A:いつもの様に家の前にあった中学校の校庭に何か描いていたら、工事のオジサンに「うまいね」と褒められ、「大きくなったら何になるの?」と聞かれた時、すぐに「絵描きになりたい!」と返事したのをよく覚えています。とにかく描くのが好きで、家にいて暇さえあればチラシの裏にずっと描いていました。母に言わせれば、紙と鉛筆さえ渡しておけば手のかからない子だったそうです。

Q:その頃は何を描いていましたか?
A:植物やお人形さんなど、観たものを手当たり次第描いました。ただ、写生だけでなく想像した自分のイメージも絵にしていました。でも、その傾向は長女の私だけで、下にいる3人の兄弟はいたって普通でした。

作品とIZMIN

Q:絵を描くこと以外には、どんな遊びをしていましたか?
A:ままごとやお人形さん遊びもするにはしましたが、かなりおてんばのアウトドア派だったので、描いていない時は近所の山の中を駆けずり回り、誰も知らないところに入って植物や自然に親しみ、一人悦に入っていました。

Q:小学校では?
A:幼い頃の延長で外に遊びに出たら走り回り、絵の熱も醒めず、家にいれば描くことに加え、イラストで描かれた好きな図鑑を読みながら過ごしていました。お陰で花や植物の名を覚えることができたし、植物を多く描いていました。あと、絵とは関係ないけれど、小学校時代から英語の勉強をしたくてしょうがなかったです。

Q:中高一貫の女子校に進んでからはどうでしたか?
A:いま思えば、学校生活は女の子だけのミッションスクールででフランクな感じだったし、校内の至る所にラファエロやミケランジェロの絵が絵が飾ってあり、日常的にアートに接していたので中高時代で得た感覚が、その後の私の人生に大きく影響していると思います。

Q:校内で絵と触れ合れあえるのは素晴らしいと思います。ご自身の絵はどうでしたか?
A:漫画好きのクラスメートに誘われ、小学校では縁がなった漫画を描き始め、中学時代は漫画だけを描いていました。

作品とIZMIN

Q:どんな漫画を描いたのですか?
A:トーベ・ヤンソンの本を図書室で見つけ、ハマり、最初に描いたのが、まだ漫画化されていなかったムーミンです。

Q:ムーミンですか?
A:はい、あのムーミンです。それで、私が絵を大好きなことは変わりませんが、お話も同様に好きだったので学校の図書館に入り浸り状態でした。中でもSFでは最初にC・S・ルイスの「ナルニア国物語」を読み、その世界に魅了され、「指輪物語」などの本を読み続けました。

Q:SFに感化されたのですか?
A:はい。「私は絵とは違う視点で、SFを読むのも、自分でストーリーを組み立てるのも好き!」、そんな心境だったと思います。

Q:高校に進んでからは、どうでしたか?
A:高校生になってからは漫画同好会に入り、その頃からSF漫画を描き始めました。

IZMIN

Q:内容は?
A:恋愛ものは嫌いなので、どこかの惑星で古代文明が発見されみたいなストーリーをはじめ様々でした。漫画雑誌にも投稿したけれど、良くて3位ぐらいでしたね。

Q:高校卒業後はどうしたのですか?
A:芸術とは無縁の家系だったので、高校卒業後、私が東京の美大に進みたいと言った時も両親から猛反対され、断念せざるえませんでした。それで、実家が長崎では有名な角煮マンを製造販売している店だったので、卒業後の数年間は、家事や店のお手伝いをしていました。

Q:その間も絵を描いていたのですか?
A:はい。しばらくはSF漫画を優先に考えていましたが、高校を卒業すると気持ちも落ち着き、好きなデッサンは続けていましたが、油絵の道具を購入、自己流で描いてのですが、あの匂いがダメで具合が悪くなり半年ぐらいで諦めました。また、その頃、日本画を知り、いつかできれば良いなと思っていたのですが、長崎には日本画の先生がいなくて機会を待つことにしました。

IZMIN

Q:家業のお手伝いをずっと続けていたのですか??
A:いいえ、手伝いは4〜5年でやめ、母の知人の衣料品店で働いていたのですが、1983年、私が27歳の時、いきなり父から「青年の船」に乗るように勧められました。どうも父は、結婚を全く意識していない私に、そこで相手を探させるつもりだったようです。

Q:「青年の船」?
A:正式には「日中友好九州青年の船」と言い、参加者は九州8県から350人ぐらいで、事前研修も3回あり、そのプロジェクトには公費が入っているので帰国後も青年団活動をする決まりでした。

Q:旅程は?
A:約2週間で、上海、無錫、天津、北京を巡りましたが、私は平らな土地が少ない長崎育ちだったので、中国で生まれて初めて地平線しかない世界と出会い、とてもショックを受けました。正に「井の中の蛙大海を知らず」を実感しました。

IZMIN

Q:中国では、絵を描きましたか?
A:万里の長城の壁の絵をスケッチ、帰国してから絵にしました。

Q:お父さまの思いはどうでしたか?
A:私にその気がなかったので、父の思惑も外れました(笑)。

 

続く

取材日:2021年6月4日
取材協力:YUGAWARA HOUSE

 
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