☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…
第19回
和光大学は非常にユニークな大学であり、また自分の感性にも合うことが多かったが、授業に興味深いものが多かった。 特に外に研修に出かけて行くものが、やはり印象に残っている。
一般教養で履修した考古学の授業もその一つだった。 考古学というと縄文や弥生の時代の住居や生活用具を知る、というイメージが大きいかもしれない。 もちろん基本的な事項としてそういうことも扱ったかもしれないが、この授業のメインはなんと「原始時代の方法を使って火をおこす」というものだった。 記憶に残っているのは、厚木の相模川沿いまで行き、本当に木材を使って火をおこす体験をしたことだ。 両手を使って棒状の木材をすようにして火をおこして行く方法は難解ではあったが、火がついた時は感動ものだった。 しかし私たち学生は一応先生からやり方を伝授されているからまだ楽だ。 その授業を担当していた先生は、昔この研究を始めた頃、周囲に原始人の火のおこし方を教えてくれる人などなく、独学で何度も、何度も試してやっと成功したのだが、その時には両手のひらは豆だらけ、皮膚もむけてしまったという話をしてくれた。 おそらく原始の人たちもこのような苦戦の繰り返しの果てに、生活の知恵を積み立てて行ったのだろうか。 現代人はなんと便利な環境にいるのだろうと、あらためて感じる体験であった。
「モダニズム研究」という授業もあった。 主に文学科の授業で、大正から昭和初期、日本でモダニズム文学と言われたものを、作品と時代で見ていくという内容だった。 担当教員も4名おり、それぞれ国文学、英文学、仏文学、独文学の先生がついた本格派だった。 余談だがそのうちの英文学担当の先生は、偶然にも私が以前企画した音楽ライブに、出演者の知人ということで来て下さったのは、驚きかつ嬉しかった。 何より印象深かったのは、モダニズム文学の舞台となった谷中・根津・千駄木(後に谷根千と呼ばれ注目される)と鶯谷界隈に、授業の一環で出かけた時だった。 この周辺の街を丁寧に見て回ったのも初めてだったが、昭和初期のただ住まいを残した建物が立ち並ぶ姿は、モダニズム小説の世界、特に私が好きだった江戸川乱歩の作品世界にタイムスリップするようだった。 また偶然どこかの店から流れていたスイングジャズのメロディーは、その雰囲気を完璧なものにした。 そして今は亡き鶯谷アパートメントを見た時の印象は忘れられなかった。 残してほしい建物だったが、その後の震災を考えると、防災的にも無理と言わざるを得ないだろう。 この時はまだ阪神淡路大震災が起こる前のことだった。
そして体育の授業。とは言っても「キャンプ」というタイトルだったので、興味本位から選択してみた。 キャンプというだけあり、内容はテントの 張り方の説明とか、およそ体育の授業とは思えない内容であり、特筆すべきはカレーライスの作り方、パスタの作り方を実習した時だ。 キャンプでは食事作りも重要なファクターであるが、体育でなく家庭科を選択したかと錯覚するようなその授業は大変楽しかった。 ちなみにこの授業の担当は、学内で一番たくましいと言われているトライアスロンの得意な先生だったのも意外だ。 このキャンプの授業最大のイベントは、実習として本当にキャンプに行った時だ。 トライアスロン先生とともにバスで富士山麓をめざしたが、最初に立ち寄ったのはあの青木が原だった。 一度入ったら出てこられない、磁石も狂うと言われる魔の樹海であり、自殺者も含め中で死ぬ人も多いのは有名だ。 実は先生の友人で、そうした青木が原の捜索を専門にしている人がおり、その人のチームに率いてもらい実際に青木が原に入ったのは、またとない体験だった。 その専門家の人が言うには、よく素人が入口から綱を伝って入って行こうとするが、そんな簡単なものではないということだ。 樹海の中で、洞窟の入り方を指導され、なおかつ実践したが、正直言ってここで人生は終わるのだろうかと思ってしまったほどだった。 そんなわけで、出てきた時は本当に安堵の思いだった。
実際にテントを張ったのは、山梨県の芝川という所にあるキャンプ場で、あいにくの雨であった。 キャンプ場の雨ほど風流なものはない? 芝生は田んぼのようになり、何人が滑ってびしょびしょになっただろうか? そしてトイレに行けば、ドアにガマガエルが「貼りついて」いるのだ。 人間から見れば、よく滑り落ちないものだと感心してしまう。 しかしながら、そんな環境の中でも、皆で作ったカレーを食べた時は「こんなに旨いものはない!」という思いだった。 そして小学校以来のキャンプファイヤーに参加し、初めて張ったテントの中で眠り、帰ってきてみれば、この年になってこんな楽しい経験をしたことに満足した。