畳職人四代目が語る「畳の世界」! 前編
Talkでは、これまで画家を軸に多くのアーティストの方々を紹介してきましたが、今号からアルチザン(職人)にも目を向け、アートとは一味違う「職人の世界」にも視野を広げて行きます。 最初に登場するアルチザンは、昨秋、宮島永太良が初参加した「湯河原・真鶴アート散歩」で、ご一緒した畳職人の真壁一嗣さんです!
◎真壁一嗣(まかべかつじ)さん プロフィール
畳職人四代目 畳製作一級技能士(国家資格) 1975年 2月17日神奈川県小田原市生まれ 水瓶座 O型 茨城県畳高等職業訓練校 卒業 Web site ► |
真壁一嗣さん、「畳の世界」を語る…
月刊宮島永太良通信編集部(以後M):今日はよろしくお願いします。
まず私たちは、身近にある畳のことをほとんど何も知らないので、歴史などの基礎知識を教えてください。
真壁一嗣さん(以後K):日本文化は、昔、中国から伝来したものが多いのですが、畳は日本固有の敷物で四季、季節の移り変りがはっきりしている日本の風土に一番適した敷物として継承されてきました。
その歴史は古く、古事記(712年)が編纂された時代まで遡ります。
M :その時代は今のような畳だったのですか?
K :当時はワラを加工した敷物を重ねたものと推測され、畳が今のような形になったのは平安時代になってからです。
でも、その頃は畳を使う人の身分で仕様が異なり、大きさや厚さ、畳縁の色も決められていたようです。
それが、鎌倉時代から室町時代にかけて、部屋全体に畳を敷き詰めるようになり、上流階級や客のもてなし用だったのが、建物の床材として使用されるようになったのです。
しかし、そうした使い方も、まだ貴族や武士の豊かさの象徴でしたが、桃山時代を経て江戸時代に至る中で、数奇屋造や茶道が発展して普及。
そのお陰で徐々に町家にも畳が敷かれるようになったようになりました。
でも、身分による畳の使用制限は残り、庶民が使えるようになったのは、江戸時代中期以降、畳師・畳屋と呼ばれる人々が活躍したそうです。
M :畳の材料は?
K :多年生の植物イグサです。
最近は中国からの輸入もありますが、国内生産量第1位の熊本を筆頭に、広島、岡山、福岡、高知などが主な産地です。
生産方法ですがイグサの苗植えは12月。
そして、5月上旬に新芽の発育を促す為に45cmほどの長さに切り揃える先刈りという作業を経て、5月から6月にかけて肥料を与え、6月中旬から7月中旬にかけ、成長したイグサを刈り取ります。
M :刈り取り後は?
K :畳表の製作過程で最初にするのが泥染め、これはイグサの独特の色・艶、そして、あの芳しい香りを引き出すために行われます。
それが、我々、畳職人の元に届けられるのです。
M :材料のイグサを育てるのにはかなり時間がかかるのですね。
それでは、職人さんが畳1帖を作るにイグサはどれくらい必要ですか?
K :その前に、京都地方の畳が「京間」と呼ばれるように日本各地で、畳のサイズが違うことも知っておいてください。
それで、普通の畳一帖分に使用されるイグサは約4,000〜5,000本。
高級なものになると7,000本ものイグサが使われます。
良い草は、茎に変色や枯れ、折れや傷がなく根元から先端までがしっかりしているモノ。
一般的には長いイグサを使ったものほど品質の良い畳表になります。
M :時間的には?
K :新畳の場合、機械縫い1帖の製作時間は、1時間45分〜2時間程で、補強材等の手縫いの作業も少しあります。
手縫いでの製作時間は、3時間30分〜4時間程。
機械、手、共に丹念な作業になります。
M :解説をありがとうございました。
畳の基礎知識はおおよそ分かりました。
あと昔から気になっていたことで、「畳の縁(へり)を踏んではいけない」と言われていますが、どんな理由からでしょう?
K :現実的な話から精神的な内容にまで及びますが、4つの理由があると言われています。
現実的には、@「傷まないように」:縁はもともと畳の中では一番弱い部分、昔の縁生地は主に麻布や絹、植物染めがほとんど、色も消えやすく丈夫でも無かったので、丁寧に扱うため。
A「転ばないため」:縁の部分は少し盛り上がっていて、足元の弱い年配者を筆頭に躓いて転んでしまうこともあります。
そのうえ昔の御殿の縁は分厚いものが多く使用されており、躓くと大変なので、注意喚起のため。
B「命を狙われないため」:武家の心得として「床下からの刺客が畳のスキマから刀を刺して倒す」ということもあり、畳の縁を踏むと「殺されるかもしれない」、それは「縁起が悪い」、だから「踏むな」になったとも言われています。
M :精神面では?
K :畳の縁は聖地と俗地を隔てる境界線(結界)とされ、身分の高い人の座る場所と一般の人が座る場所を区別し、縁を踏むことで秩序を崩さないため。
また、家紋の入った畳縁を踏む事は、御先祖や親の顔を踏むのと同意のため踏まないようにするのが武家のたしなみであり、商家の心得であったと言われています。
縁だけでこれだけの話ができるのですから、日本人と畳の関係は本当に深いですね(笑)。
M :で、いよいよ真壁さんご本人への質問です。
畳職人になろうと思ったのは何時頃ですか?
動機は?
K :小さい時から会社員になる考えはなく商売をやりたいと考えていましたが、中学から高校へ進む頃には畳職人になろうと決めていました。
動機は小学校一年生の頃、父とお風呂に入っていた時に言われた「男だったらオヤジを超える人間になれ」という言葉で、成長してからも父を超えたいという意識があり、それなら同じ土俵の上で勝負するのがベスト、家業でもある畳屋を継ぐことに決めました。
M :先代のお父上の反応はいかがでしたか?
K :それが、サラリーマンのように土日休み、ボーナスありの安定した生活を送ることができず、父自身が体験してきた昔ながらの厳しい修行を考えたからだと思いますが、畳職人への道は大反対でした。
M :何時頃まで反対されたのですか?
K :高校の先生との進路指導の時までです。
M :かなりギリギリの頃ですが、どうやって納得させたのですか?
K :高校卒業後、全寮制の茨城県畳高等職業訓練校に入ることで許してもらった感じです。
でも、「逃げて帰ってきたら絶対家には入れない」が父からの条件でした。
M :逃げてきましたか?
K :いいえ(笑)。
次号に続く…
*参考:HP「ゆめの畳」、日本文化研究ブログ