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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…

第20回 心に残る恩師…

 和光大学での貴重な思い出をいくつか語ってきたが、この大学をはじめ、以後お世話になった恩師の中には、残念ながら鬼籍に入られた方もいらっしゃる。  今回はそうした方々の思い出を紹介したいと思う。

 まず私が入試の面接でお世話になった針生一郎先生。  前述の通り、先生は日本美術評論界を代表する人物で、偶然にも面接で最初に知った教授で、最終的にはゼミまで取らせていただけたのは貴重な体験と言えよう。

宮島永太良 和光大学で

 このゼミが午後5時からだったのだが、非常に重厚な時間であった。  とは言っても居心地がよいのだ。  先生はいつも真面目な顔と口調で話すのだが、最後まで聞いていると必ずオチがある、というギャップも良かった。  もちろん難しい話は多い。  多いのだがそれを無理に理解しなくてはいけない責務もなく、現代美術の知識をあらためて増やすには相応しい場所だった。  またこのゼミではコーヒーが出るのだが、砂糖やクリームは一切なく、全員がブラックを飲まざるをえない。  私はブラックが好きなのでよかったが、このゼミでブラックの味に慣れた学生もいたことだろう。

 ゼミ旅行も参加させてもらった。  行先は奈良方面であり、OBも何人か参加(この大学ではそういうパターンも多い)しての旅行だったが、先生の年齢からすると、まさに「生徒を引き連れた長老の一行」という感じだった。  室生寺に行った時、そこにはかなり長い石段があり、当時70歳を少し超えていた先生は、「私はここで待っているからみんな登ってきていいよ」と言ってくれたのだが、本当に全員が登って行ってしまうと(誰も先生に付き合ってあげないとは?)、最終的には先生も登ってきてしまった、という楽しいエピソードもあった。

奈良の満月

 針生先生は美術理論担当であったが、実技の教授であった川添修司先生もお世話になった。  先生の専門は油絵など洋画系だったが、毛筆を使った絵巻タイプの作品が記憶に残っている。  どこまで続くのだろうと思うくらい長い絵巻は、絵の可能性と夢を教えてくれた。  この実技の授業では、出席ではなく制作したいと思う時間が重要視され、アトリエにも好きな時間に入れた。  そのため川添先生の他の授業の学生たちとも親しくなるという状況もあった。

 和光大学を卒業した後、美術関係のライター等の仕事をしながら、もう少し学校生活を続けることになる。  早稲田大学の第二文学部には、学士入学(大学を卒業した者は学士という称号が授けられるため)という形で3年次から編入した。  ここでは美術の歴史を専門に研究する「美術専修」に籍を置いた。  この専修の教授陣は、第一文学部の美術史専攻と兼業であり、ベテラン揃いだった。  かつてはエジプト考古学で有名な吉村作治先生も美術史専攻所属だったらしいが、この頃は「人間科学部」に移動されていた。

大隈講堂

 私がお世話になったのは、当時まだ若かったが、その後48歳で逝かれてしまった、現代美術研究家の宮下誠先生だった。  先生は私と10歳も離れていなかったと思うが、その現代芸術の知識は豊富で、美術のみならず、現在音楽の授業ももたれていた。  私は卒論でピエト・モンドリアンを取り上げたので、先生に主査をお願いすることになった。  先生の20世紀美術の見方は鋭く、本を読んでわかったつもりになっていた私は、次々と打撃を受けることになる。  先生の他の大学での講義も聞きにいったことがあるが、その講義は情熱的であり、手法は違うが、まるで現代芸術の講談を聞いているようであった。

 そして、大学ではないが、一年間だけ美学校という学校に行っていたことがあった。  もともと、赤瀬川原平氏ほかの路上観察学会に関する本を読んで興味を持ち、その発生が美学校から起こったことを知り、どんな学校なのか気になって調べていたが、興味は膨らみ、ついに入学を決めてしまった。  ここでは細密画教場というところに入った。

 まず校長の今泉省彦先生の存在に衝撃を受けた。風貌にとても威厳があったのだ。  しかし、その風貌とは逆に校長としてまず新入生に流暢な言葉で話をされ、その最初の話が「授業中に災害が起きた場合どうするか」、2番目が「担当教員が亡くなった場合どうするか」だった。  考えてみれば、最も重要な話なので、これは流石だと思った。

絵道具

 また、その細密画教場担当教員である渡辺逸郎先生。  この方は校長とは正反対に言葉少な目だった。  私の在学中は、そのような非常事態にはならなかったが、既に亡くなって5年、まだ早い逝去だった。  細密画を教えてはいるが、先生自身は抽象画家であったのが興味深い。  その抽象的作風の中には、確かに細密手法が見て取れる。  お酒が好きな方で、授業後はよく生徒みんなと飲みに行ったが、非常に静かな酒の席で、バカ騒ぎして飲むのが苦手な私にとっては好きな時間だった。

 その後私は細密画というのをやっていないが、絵画とは基本的に「物をよく観察すること」であるのを、この教場であらためて教えられた。  そして自己流の絵になってから開いたいくつかの個展にも今泉・渡辺両先生が見に来てくれたことは、非常に嬉しかった。

 思えば小学校から、少し年を過ぎた大学生になるに至るまで、お世話になった恩師は多かった。  長生きされた方、早逝された方、そして今も元気な方・・・そんな恩師たちから学んできたことが、頭の中、体の中に断片となってインプットされ、それらがまた再構成されてアウトプットされていく。  最近はそんな流れを感じるようになった。  あらためて、自分は、恩師はもちろん友人も含め、様々な人たちに「形づくられてきた」と思うのである。

(写真:関 幸貴) 
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