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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…

第15回 再始動…

カモメ

 大学に退学届けを出した私は、人生初、あるいは4歳の時以来のフリーな人間となった。  私が高校から最初の大学に進学したのは80年代半ばであったが、その頃は前回でも述べたように、世の中の若者が軽いライフスタイルを堪能し、世間でもそれが(決して賞賛されているわけでなく)もてはやされていた。  私の通っていた学園(高校・大学とも)も特にそうした傾向が強かったようで、それを物語るような出来事が高校在学中にあったのを思い出す。

 それは私たちの一つ上の学年の卒業式だった。  高校では男子だけに制服があり、女子は私服だったことは前にも触れたが、この時の卒業式では、女子はあらゆる服装が見られることになった。  ナイトドレスそのものの、両肩露わな服装、後の時代にワンレン・ボディコン等と呼ばれたスタイル、または原宿を闊歩しているかのような、ポーチをぶら下げたサスペンダーパンツスタイル(普段はスカートに限られていたのだが)、和服はいなかったように記憶する。  

二宮金次郎の銅像

後輩たちの演出も派手で、人気のあった女子生徒等が卒業証書授与の番になると、アイドルの声援さながらに「〇〇ちゃ〜ん!」と男子が叫び、クラッカーや紙テープが飛ぶという有様だった。  その後、学園長の言葉となるが「これは卒業式だぞ!」と鬼の形相になって怒っていたのを思い出す。

 何年か前、成人式の式典の出席者たちがあまりに態度が悪く、怒鳴った県知事がいたが、その何年も前に似たような状況があったのだ。  しかし、どんなに怒ったところで「こんな校風になったのは学長、あんたのせいだよ!」とツッコみたくもなるのだった。  おかげで次の年の卒業式、つまり私たちの卒業式はガラリと地味になった。  というかごく普通の卒業式になった。

 話を当時に戻そう。大学に二年行ってしまった後だったが、美術系、特にデザイン系に行くことは諦められなかった。  退学する事前に某大学の受験は試みてみたが、何の準備もなく合格するはずもなく、校舎の場所を確認する意味だけにとどまった。  

ざるそば

そして三浪生と同じになることを覚悟で再受験することとなる。  しかし親族や周辺に、美大系は誰もいなく、どうやって受験勉強したらよいかもわからない中での出発。  そこで相談したのが、高三の時通った美術研究所の先生だった。

 とにかく美術系の大学入試は学科以上に実技が問われる。  特にデザイン系は「デッサン」と「平面構成」が中心だ。  そんな実情も先生から教えてもらった。  平面構成とは聞きなれない言葉かもしれないが、物やイメージ等の課題が与えられ、それを色彩と形で構成画にするというものだ。  実技重視とはいっても学科、特に英語は勉強が必要だ。  そんなわけで午前中は近くの予備校で学科の勉強をして、午後は先生の所でデッサン等の勉強をする日々がスタートした。  この先生とは授業の休み時間なども話をする機会があったが、「デッサン」とは物を見る訓練なのだということも初めて教えてもらった。  画家やデザイナーはもちろん、彫刻家や工芸家、漫画家だって、物をよく見ることは基本の基本なのだ。  「描く」前によく「見る」ことが必要なのである。  そんなことも知らないで大学で美術を専攻していたのだから、恥ずかしいというしかない。  また、そんなことを知らなくても大学で美術は専攻できてしまうのも現実であった。  また、自分が一度大学を辞めて受験し直すことの後ろめたさを相談した時、実は先生も大学を2回変わっているという話を聞いた。  最終的には東京芸大を出ているが、最初は地元の国立大学に入ったが退学したという。  

城

その後、実家がお寺だった(と言っていたように記憶する)関係から私立の仏教大学に入り直したそうだが、そこも卒業しなかったようで、その後本格的に彫刻の勉強をめざし、東京芸大に入ったらしい。

 私が在籍していた大学では、二浪した学生でさえ異端扱いされ、以前に専門学校に行っていたという学生などは軽い内緒話として語られるほどだった。  要するに世界が狭いのだ。  世の中にはもっといろんな学生時代を送っている人がいるんだということを、この頃あらためて教えられた。

(写真:関 幸貴) 
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