加藤力之輔さんスペインを語る! 前編
◎加藤力之輔(かとうりきのすけ)さん プロフィール
画家。 1944年6月13日神奈川県横浜市生まれ、双子座、A型。 1972年からスペイン国立プラド美術館で4年間 〈ティツィアーノ〉を模写研究。 マドリードの美術研究所で人体デッサンの修練で モノの見方を学び続ける。 日本、スペインで多数個展開催。 2004年より覚園寺(鎌倉)・新善光寺(京都) ・梅上山光明寺(東京)で「異文化空間展」開催。 同時代ギャラリー(京都)、印象社ギャラリー、 文藝春秋画廊、小川美術館(東京)等でも発表。 現在も京都・スペインで制作。 |
京都市東山区のアトリエで加藤力之輔さんに、
スペインへの道、かの地での制作について語っていただきました。
月刊宮島永太良通信編集部(以後M):何時頃、スペインに向かわれたのですか?
加藤力之輔さん(以後K):僕が28歳の1972年7月1日に現在のロシア経由で向かいました。
横浜港からバイカル号に乗船、津軽海峡を抜け、3日間の航海でナホトカに到着。
ナホトカからハバロフスクまで一昼夜だけシベリア鉄道に乗車、ハバロフスクからモスクワまでは、約8時間の空の旅でした。
M :ロシア経由は、最初からの計画ですか?
K :いいえ、もう一つ候補がありました。
ちょうどその頃、最後の山下新汽船のフランス / マルセイユまでの船旅があり、航海は一ヶ月弱でした。
色々と検討しましたが、船便だと荷物は100キロまでOKでしたが、下船してから、それをマドリッド(以後マドリー)へ運びながら行くことを考えたら大変だと思い、ロシア経由を選びました。
M :国名は現在のロシアではなく、社会主義ソビエト連邦の時代。首都モスクワは、どのような感じでしたか?
K :モスクワ市内に着いたら、子ども達が「チョコレートくれ、チョコレートくれ!」と言いながら、寄ってきたのに驚きました。
それから、テープレコーダー等の録音機は全て封印され、写真は鉄道施設等公共施設の撮影は禁止。
当事は冷戦の真最中で、まさに五木寛之さんの小説「さらばモスクワ愚連隊」の時代。
外国旅行者への対応はかなり厳しかったですね。
M :モスクワにはどのくらい滞在したのですか?
K :2泊です。
その間はインツーリストの仕切りで、緑が美しい夏のモスクワで美術館案内をされ、プーシキン美術館、ノービッチ修道院等を巡りました。
でも、赤の広場は前を通っただけ。
そして、何処へ行くにも必ずガイドさんが付いていたのが強く記憶に残っています。
M :モスクワ巡りは離日前から計画していたのですか?
K :いいえ、パックツァーだったので、旅程に組み込まれていたのです。
M :えっ、パックツァー!
K :はい、今では考えられないでしょうね。
日本の横浜発、オーストリアのウィーンで解散するツァーで、最年長の私はスペインへの片道切符(笑)。
他のメンバーも似たりよったり、大学生とか、大学卒業したてとか、とにかく若い人が多く20人弱のツァーでした。
留学目的の人もいたし、中には反戦活動家だったベ平連の小田実さんの影響をもろにうけ、一ヶ月以上ヨーロッパに滞在し「なんでも見てやろう」という人もいたりして、ツァーは若いエネルギーに満ち溢れ、面白かったです(笑)。
M :モスクワからはどう移動したのですか?
K :ウィーンまではツァーで列車移動。
一人になったウィーンからはオリエントエクスプレスに乗りました。
当時、オリエントエクスプレスはあちこちから出ていて、僕はスイス、ドイツの国境を越えてパリを目指しましたが、列車に乗った時点でパスポートを預け、パリ到着時に返却してもらいました。
車両ごとに車掌さんがいて、なかなか厳しかい状況でした。
M :パリからは?
K :ベルギー方面からパリに入ったけれど、パリの鉄道は方面ごとに始発駅があり、スペイン方面はオーストリッチ駅だったので、メトロでグルーっと回って、向かいました。
そこからはマドリーまでは夜行列車で移動しました。
M :ヨーロッパ大陸、最終移動はどうでしたか?
K :フランスから国境を越えスペインに入る時は、独裁のフランコ政権だったので、厳重な検査があると同時に、線路の幅が中軌道から広軌道に変わるので、車両ごと持ち上げられて、カナヅチで車輪を広げる音が、カンカンと響いていたのが印象的でした。
M :車窓からのスペインの風景は?
K :美しいエスコリアル宮殿が見えて驚きましたが、他のヨーロッパに比べて緑は少なく石がゴロゴロしていました。
そして、横浜を出発し約10日後にやっと着いたマドリーは、かなりの大都会でした。
M :マドリーでは?
K :まず、知人の紹介で学生寮 / コレヒオ・マヨールへ行き、夏だったので、そこが一般にも開放されていて、2ヶ月ぐらい滞在して、プラド美術館に通っていました。
手続きは、知人も含め僕が日本で行い、許可証も持っていたので全てがスムーズに進みました。
M :寮生活の後は?
K :寮を出て最初に住んだのが、地下鉄で行けるマドリー市内、下町のアパート。
スペース的には日本に比べれば広く、約1年間住みましたが、短い間だったから、ほとんど覚えていません。
そして、現地で日本女性と結婚をし、次がプラド美術館から歩いて5分ぐらいの所に知人の紹介で入りました。
窓からは国会議事堂も見え、周囲にはパラスホテル、リッツホテルとか一流ホテルが並び、環境的には抜群でした。
また、ラフを学んだ美術研究所からも、徒歩5分だったので、皆から羨ましがられました。
あまりの好条件だったので、40年間借り続けましたよ(笑)。
M :マドリーでは、どんなリズムで描いていたのですか?
K :最初の4年間は火曜日から金曜日まで、プラド美術館で模写を6時間、その後は研究所へ向かい、日曜日だけ休み、毎日3時間ぐらい描いていました。
模写を終えた後は、1日6時間ぐらい、毎日ラフだけを描いていました。
M :まるで修行僧のようですね。
K :プラド美術館で絵を見た時、当然一流の作品ばかりですから、デッサンは完璧でした。
でも、僕のデッサンはひどいと感じた。
だから、この時点から、やり直さなければダメだと思い、毎日模写しながら、その後は研究所でデッサンに励みました。
M :作品を拝見すると、加藤先生の頭と手に技術が染み込んだ感じを受けます。
K :人の動きは、見なければわかりませんが、数多く描いたおかげで「おそらく筋肉の動きはこんな感じになる」とわかるようになりました。
また、普段は近所の人をモデルにしながら描き、妻が旅好きなので、同行してスケッチをしていました。
妻が文章を書き、僕が絵を描いた本もあります。
そして、1990年代の初め、初めてスペイン来た時、車窓から見たエル・エスコリアルの山にアトリエを建て12年間暮らし、その間、マドリーの家は息子たちが使っていました。
M :制作場所が変わり、作品もどうなりましたか?
K :建物は280u、アトリエが120uぐらいあり、体育館みたいに広いのでキャッチボールができました。
一番高いところで5mはあったので、天井は高く、スペースがあり、お陰でどんどん大きな絵が描けるようになりました。
とにかく、ここでは大作しか描きませんでした。
つづく