☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…
第14回 大学に進んでみたものの…
経験もほぼない陶芸のコースを選んだが、果たしてやって行けるだろうか、という一抹の不安を持ちつつも、取りあえずは春から大学生になれる。 こんな喜びの方を多く持ちながら春休みが開けた。
当時私は、大学に入ったら遊ぼうと思っていた。 しかし、入学し、他の仲間たちを見ていると、そんなレベルではなかった。 同じ陶芸のコースに来たのは、みな第一希望でない学生ばかり(あるいは一人か二人くらい第一希望はいたかもしれないが、本腰を入れてやろうという感じではなかった)大部分が、陶芸を本当にやりたくて入ったわけではないのだ。 みな陶芸を仕方なく習っている感じだ。 (それは陶芸が嫌いなのでなく、勉強が嫌いという姿勢から)見ていると、彼らは大学で学ぶことの何倍も遊ぶことを考えているようだった。 私は「何でこんな環境に入れられ、無理やり陶芸をやらなければいけないのか?」と、思い始めた。 陶芸を毛嫌いしていたのではない。 その後の人生では何回かやっているし、現在もまわりに良い先生がいることを考えると、これからもやりたい表現技法である。 問題は自分が置かれた環境だった。
「学ぶの嫌い、遊ぶの大好き」という同級生たちは、また何をやるにも集団行動。 「これ本当に大学生か?」と疑問を持つほどで、小学校の集団登校さえ彷彿させた。 当時の大学は土曜も授業があった。 一人だけ土曜に何も授業のない学生が、仲間と遊ぶためにわざわざ毎週土曜に来ていたのは恐れ入った。 湘南の海がやや近いこともあり、サーフボードを大学に持って来る学生もいた。 しかも授業はサボれる限りはサボるのが、当たり前。 たまに最初に出席を取る授業があると、みな返事をしてとっとと、外へ出て行ってしまう。 そして外へ出て何をしているかといえば、仲間どうしでベンチに座って話したり寝たり煙草を吸ったりしているだけだ。 「これ、授業に出ていた方がまだマシなのでは」と、私は思ってしまった。 私としては話を聞きたい授業もあったのだが、このような「授業に出なくて当たり前」のような状況では、みんなに合わせないわけにもいかず非常に困ったこともあった。 自分が動きたいようにしか動けない私は、いつしか集団行動的な仲間と動きが合わなくなってきた。
もともと第一志望に来たわけでもないし、大学を休むことも多くなって行った。 次第に陶芸クラスのメンバーと気が合わなくなり、何人かは私に対して悪口を言ったりバカにしたりという状況も起こってきた。 人と違うというのはこんなにも大変なことか、とつくづく感じた。
今思えば、当時の大学生のあり方は、私に向いていなかったのかもしれない。 当時は「オールナイトフジ」等の深夜番組が流行で、その中に登場する女子大生の軽いノリが社会的にも面白がられていた。 この当時の大学生はみなそうしたノリに影響を受けていたようだ。 「ネアカ」「ネクラ」等の決めつけ言葉のはやり、ネアカと呼ばれたいためにみな集団とつるみ、何の疑問もなくバカなノリもやり続ける。 また当時は「新人類」などという言葉もはやった。 若者を見て、考えていることがとてもわからない、と思った年配者たちが付けた俗称だ。 いつの時代にも言われる「近頃の若い者」の別称と言ってもいいだろう。 今ではすっかりこの言葉は忘れられ、付けた方も言われた方も、もう旧人類になってしまった。
陶芸が第一志望でなかった悩みを持ちつつ、集団に迎合できない苦しさがさらに上乗せされ、こんな状況で学生生活が送れるわけはないと、受験のし直しを考えるようになった。 そして、できれば今度こそデザインを学ぼうと考えていた。 親との葛藤も続いた。 親からしてみれば「なんでやっとの思いで入った大学をやめたがるのか」「次にどこかに合格する保障などない」と思ったことだろう。 精神的にも、僧侶の出家のような気持ちになり、なぜか頭も坊主狩りにしてしまった。
そして2年生の終わり、大学へは退学届けを提出することになった。 「また受験生に戻る」そんな虚しさを感じながら、向かったのは高校3年の時に通った美術研究所だった 。 みんなと交われず、また受験をやり直そうとする私も、別な意味で新人類と言われる対象だったかもしれない。