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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…

第13回 大学進学、岐路に…

線路

 慣れなかった東京都内の私立付属高校も、3年になるころにはすっかり溶け込み、気の合う仲間も増えていた。  この時期になると皆の共通のテーマは「進学」である。  付属高校なので、基本的には同学園の大学に進もうとする生徒が多かったが、やはり外部の大学を目指す生徒もまた多かった。 私は楽な道を選ぶ方だったので、自然と同大学を目指す方に傾いていた。  一年の頃は、あまり学校になじめない気もあったので、大学は他に出た方がよいかな、と思ったこともあったが、この学校の雰囲気に溶け込んでいくうちにそんな考えもいつしか消えていた。

 専攻は、昔から絵を描くのが好きだったということで、またこの高校でも油絵を履修していたことで、自然に美術のコースを志望していた。  ただ「絵を描いているだけじゃ将来仕事はない」等と、この頃からも言われていたので、ならば仕事に結びつくだろうという短絡的な発想でデザインのコースを志望した。  今考えてみれば、デザインと一口に言っても、「グラフィック」「インダストリアル」「ファッション」「インテリア」「建築」など様々な分野があるはずが、ただデザインを学べば仕事になる、という安易な考えと言わざるをえない。

辞書と万年筆

 そして最近はコンピュータで全てのデザインが可能になってしまうという世の中だ。  定規やコンパス、烏口などを使って真っすぐな線を引き、ポスターカラーでむらのない色面を塗る訓練は、素朴にして懐かしい。  

 デザイン科の入試は英語や国語などの学科の他、専門科目として紙を使った立体構成、そして静物デッサンがあった。  学校ではデザイン科を目指す生徒らの専攻授業があり、懐かしの定規やコンパス、ポスターカラー等使う課題をいろいろ出されたのだが、そこでの評価は散々なものだった。  担当教員の口癖が「もうやめちまえ!」であり(こんな実力じゃこの専攻はやめろという意味)私も何度か言われて傷ついたものだった。  そしてみな学校で学ぶだけでなく、美術研究所という名の美術系の予備校に行く生徒も多かった。  内部受験と言え油断は禁物なのである。

 私は遅ればせながら2学期の初めから、相模大野にある個人経営の小さな美術研究所に通った。  ここの経営者兼講師であった先生がとても魅力的な人であり、この先生と話ができるだけでも研究所に通うのが楽しみだった。  ちなみに通っていた高校では2人好きな先生がおり、一人は先述の考古学の先生、もう一人は大ベテランの英語の先生だった。  この英語の先生は基本的に「生徒はそれぞれ学力が異なるだけで能力は変わらない」という考えを持っていて、テストの点数の如何で生徒を評価するということは皆無だった。  そしてうまく行かなければ励まし、良くできると必ずほめてくれた。  研究所の先生は偶然、その英語の先生とも親しかったらしいが「類は友を呼ぶものだ」と若いながらに考えた。  先生の本職は彫刻家らしいが「デッサン」が何であるかを、初めてこの先生から丁寧に教わった。  私は高校を卒業した後にも何度かこの先生の世話になるのだが、それについてはまた後述したい。

本

 受験から視点を変えると、この頃歌を歌うことに興味を持ち始め、3年生になって合唱部入部という事態寸前になったことがあった。  そもそもこの学校には選択でなく必修の形で音楽の授業があり、それも楽器の演奏などはほとんど行わず歌うことが基本であった。  私はもともと? 歌うのが好きだったのか、この音楽の授業が楽しみになって来ており、その影響からか合唱部にも親しい友達が何人かいた。  3年生2学期のある時、その友人たちから「合唱部の部活動を見学に来ないか」と誘われ、本当に行ったことがあった。  もちろん見学なので一緒に歌うわけではないが。  最後に担当の先生から「君にも入ってほしい」というようなことを言われたが、さすがに3年生2学期から入部というわけにはいかず、うやむやに終わった。

 受験に話を戻すと、私の志望したデザインは、同じ志望理由が多かったのか、かなり競争率が高かった。  競争率の高いコース志望の場合は第2希望を提出させられたが、それは無難に、やったことのある油絵にした。  

ギャラリー

 そんなことをしているうちに年も明け、いよいよ受験の日となる。  結果から言えば、内部受験ということで緊張感が本質的に欠けていたのか、採点側の下した評価は、デザインコースには点数が足りなくて無理なので、第2希望コースへ進んでほしいということだった。  しかし油絵科や日本画科は人気があってもう定員がない。  結局はまだ空きのある「彫刻」「彫金」「陶芸」の中から選べということだ。  「『点数が足りないから空いている所へ行け』はないだろう。  しかも第2希望の油絵まで満員等聞いていない」と思ったが、これも内部受験生だからこその措置だったのだろう。  外部からの受験であれば「不合格、はいそれまで」のはずだ。

 3つのうちのどれを選ぶかについては、彫刻も彫金も全くやったことがなく、粘土造形は経験があった、という消去法で陶芸を選ぶことになった。  実際、焼いたことはなかったが…。  そしてこの選択が、後の自分の人生を大きく、とまでは言えないが、相当数狂わせることとなった。

(写真:関 幸貴) 
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