TOPTalk : 対談

奈良在住の服部憲明さんが絵との関わりを語ってくれました!  前編

 

服部憲明さん興福寺五重塔を背景に猿沢池で
 

◎服部憲明(はっとりのりあき)さんプロフィール

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服部憲明さんspace
ペン画とクロッキー、およびクロッキーをベースにした
ドローイング作品を制作するアーティスト。
1949年5月3日 愛知県名古屋市東区生まれ、牡牛座、O型

1968年 愛知県立国府高等学校卒業
1972年 日本大学芸術学部映画学科卒業
大学卒業後 制作会社、広告代理店に勤務
現在はフリー


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前半は服部憲明さんに絵との関わりを幼い頃に遡ってお尋ねしました♪

宮島通信編集部(以後 M):今日はよろしくお願いいたします。  服部さんは、幼い頃はどのような環境で育ち、何を夢見ていましたか?
服部憲明さん(以後 H):小学1年の夏休みまで名古屋、2学期からは家庭の事情で蒲郡へ転居しました。  名古屋では夜まで明かりが煌々と灯る活気のある商店街、蒲郡では山と海に包まれた、ひと夏で環境が激変しました。  当時の夢は定かではありませんが、たぶん、普通の男の子が夢見るような社長とか何かのヒーローとかそんなものだったのではないでしょうか。

服部憲明さんのアトリエで

M :では、絵との出会いは何時頃?
H :特に絵画教室へ行ったこともなく育ちましたが、縁戚筋にフランス在住であった荻須高徳という画家がいまして、中学・高校生の頃から絵画を意識していたと思います。  いまのペン画のきっかけになったと思うのは、高校生の頃、色々な雑誌に1コマ漫画やカットを投稿して賞金や賞品をもらったからで、掲載された絵を同級生達に自慢していた記憶があります。  それと同じ頃、テレビの「11PM」の中で久里洋二氏のアニメーションのコーナーがあり、ファンになったのが出会いといえます。  日本大学芸術学部映画学科に進んだのも、当初はアニメーションをしようと思っていたからですが、すぐ制作資金面等で断念しました。

絵の道具

M :服部さんが、初めて描いた絵は?
H :幼い頃の記憶では商店街の道路に、いつもチョークで、映画で観たチャンバラの絵を描いて褒められ有頂天になっていた記憶があります。  今のペン画に近い絵としては、学生時代、大学のある西武池袋線 / 江古田駅の前にあった喫茶店に絵を置かせていただき販売した記憶があります。  たしか、ペイネっぽい甘い恋愛の絵や道化師が出てくる絵だったと思います。

M :小学校から始まる学生時代、周囲の服部さんの作品に対する評価は?
H :特に学校で先生から褒められた記憶はありません。  きっと、先生の言う通り描かなかったのかもしれませんね。  写生大会でもさっさと描いて、後は遊んでいたのかも(笑)。

奈良国立博物館

M :芸術系の大学に進みながら、広告代理店に進んだのはなぜ?  どんな仕事内容だったのですか?
H :大学卒業後は、帰郷するのではなく、東京でなんとか独り立ちしたいと考え、学生時代にアルバイトをしていた映画の小道具の親分に、電話で相談しました。  そしたら「お前はフリーに向かないから、ちゃんとした組織に入れ」と言われた記憶があります。  とはいえニクソンショック、オイルショックの時代。  就職難で大学の掲示板に求人票もあまりなく、そのうえ映画学科という特殊な学科。  映画産業も斜陽産業と言われていました。  そんなある日、求人掲示板にテレビコマーシャル制作会社の求人票があり、その会社が当時の明治製菓の子会社でもあり、広告の映像表現に興味があったので早速応募したら、幸運(?)にも採用されたのが広告業界入りとなった経緯です。  そこでは色々な面で厳しい経験をしましたが、入社以降、キラ星となったクリエイター達と会うことができたことは今でも大きな精神的財産です。

奈良公園

M :会社員時代、仕事とご自分の作品制作は、どのようにバランスを取っていたのですか?
H :制作会社から広告代理店に移り、若い頃は、制作費のない新聞広告にはイラストを描いたり、テレビコマーシャルの企画をしながらそのままアニメコマーシャルにしたりしていた時代がありましたが、ディレクターという立場で給料をもらうわけですから、そうしたことも出来なくなりました。  だから、勤めていた会社の皆さんは僕が絵を描くことを知らない人がほとんど。  そうした中で、僕の絵を知っていた数少ない方からたまに制作を頼まれたり、子どもへのグリーティングカード用のペン画を描いたり、知り合いの方から現在も所属している「どうとん堀クロッキー研究所」を紹介され、クロッキーを描き続けてきたことが今に繋がっていると思います。

M :会社勤めだったからこそ見えた作品制作のヒントってありますか?
H :会社員だったから見えたヒントと呼べるようなものはありませんね。  ただ、デザインとか写真とかイラストとかは、広告制作を行っていた仕事上、常に接していたわけだから、そうした意味での蓄積は大きいと思います。

M :定年後の作品制作に対する思いとは?
H :あと何年生きるかわかりませんが、死ぬときに「僕の絵はここまで」という思いを持ってペンを置きたいな、と思います。  若ければいろんな公募にも積極的に挑戦したいのですが、これからも自分が描きたいものを軸において、いまに留まらずマイペースで絵にチャレンジしていければと思っています。

M :ありがとうございました。 後半もよろしくお願いいたします。

後編に続く

服部憲明さん東大寺で
(文・写真 関 幸貴)*アトリエ写真は服部憲明さん提供
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