☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…
第12回 帰宅部、そして新たな音楽分野への興味…
高校はクラブ活動も薦める校風だった。 両親には「せっかく中学でもやったのだから剣道部はどうか」と言われたが、自分ではもう剣道部はこりごり、という気持ちがあった。 それに剣道か柔道は体育の必修科目でもあった(こちらは「少し前に取った杵柄」で剣道を選んだが)。 結局、小学校の頃遊びレベルで一時はまったゴルフのことを思い出し、ゴルフ部に仮入部をしてみた。 高校にゴルフとは大変珍しいらしいが、大学のゴルフ部とのつながりでできたようだ。 三年生のキャプテンは「うちの高校の野球部が甲子園なんて夢のような話だが、ゴルフ部のある学校自体が少ないので上位にいける可能性は高いぞ!」と話していた。 しかしこの部ではかなりの後輩いじめがはびこっていて、ある後輩部員などいじめをストレスに顔面神経痛になってしまっていた。 そんな環境に耐えられず、私は仮入部ですぐにやめてしまった。
そんなわけで高校二年生の時点ですでに帰宅部ではあったが、この学校では「自由研究」と称して、部活なみに本筋の入った趣味に打ち込める、という授業時間もあった。 午後の時間帯なので、部活に入っている生徒は部活動をその授業と換えることができるユニークなものだ。 また部活にはない「華道」「書道」「料理」「考古学」「化学実験」さらには「読書」といったものまであった。
私はこれも一貫したものがなく、一年では書道、二年では考古学、三年では読書になった。 特に二年では何も知識がないのに先生が好きというだけで考古学を取ってしまった。 既に日本史の授業をその先生から受けていたが、俳優の藤田まことを思わせるキャラクターは、どこかユーモラスでいつも優しく、時には厳しく助言することもあり、懐の深い先生だった。
私に考古学の知識がないことなどは問題にしなかった。 思い出深いのは、高2の夏、考古学を履修している生徒たちと先生とで、東北に発掘旅行に行った時だ。 その時行ったのは岩手県大船渡で、今思えば東日本大震災で最も大きな被害を受けた場所の一つだ。 初めて上野発の夜行列車(演歌では聞いていたが)に皆で乗り、明け方頃、気仙沼や陸前高田などを通過したことを思い出す。 現在、そのあたりはどうなっているのか、胸の痛い思い出である。
大船渡の地では当時も土器の破片が出る、ということで先生が連れていってくれたのだが、空地と思って入った所が実は畑で、現地のおばさんに激怒されたりした。 また、「原始時代の釣りの方法を使って魚釣りしてみよう」ということで、大船渡の港で釣りも実践、とにかく楽しい珍道中だった。 あの港もどうなってしまったのだろうか・・・・ この考古学の先生は学校での授業中、ふざけていた生徒を「お前は何のために勉強しているんだ。 自分のためだろ」と言って叱ったことがあった。 その時、直接叱られたわけでない私が、「そうか、勉強は試験のためでなく自分のためにするんだ」と、教えられた。
この頃、私はまたも音楽の趣味を広めてしまった。 これは母親が買ったレコードが誘因だったかもしれない。 「BGM大全集」のようなタイトルで、いわゆるイージーリスニングのLPレコードに心を奪われてしまったのだ。 そこにはいろいろな種類の曲が演奏だけで入っていたが、もとを調べるとビートルズの曲、ジャズのスタンダード、フランスの映画音楽、クラシックの編曲など多岐にわたって収録されていた。 このレコードを出発点として、またもジャンルを超えた音楽の趣味に走っていた。 家ではビートルズやサイモン&ガーファンクル、ナット・キング・コール、またラテン音楽などを聞いた記憶がある。 この当時でも既に古い曲ばかりだが、これらはビリー・ジョエルやTOTO、オリビア・ニュートンジョンなど同時代の洋楽にも興味を持たせてくれる要素を持っていた。
日本の音楽では大滝詠一の「THE LONG VACATION」というアルバムが大ヒットしたが、初めて聴いた時の衝撃は忘れられず、それから30年あまり、常に音景色を変えながら心をリフレッシュさせてくれている。 帰宅部ということでたびたび、通学途中でもある町田市内で友人と遊んで行くことも多く、町田という場所に一種のユートピアを見出していた。 楽しかったのは街中のスパゲティとコーヒーの店によく入ったことだ。
しかし、この時代の食欲はすごいものであった。 昼に弁当を食べ、家に変えれば夕食を食べるというのに、みんなおやつ代わりにスパゲティとかカレーライスとかハンバーグとかを平気で食べていた。 もう一つ忘れられないのが、高校二年の時、初めて学級委員になってしまったことであった。 まさに「なってしまった」という言葉がふさわしく、私を候補に推薦した友人たちはもともと冗談をやったのだ。 それがあろうことか候補者の多数決を採る時、(クラス替えなどもあり)私のことをよく知らない生徒たちが、一番ましそうに見えことで挙手が集まったようだ。 何ヶ月後かに彼らはさぞ後悔しただろうか。 しかし学級委員としてやらなければならない任務は、必死で(まさに「必死」という言葉である)こなしたように思う。 この時代好きだったアニメに「うる星やつら」があったが、主人公の諸星あたるが、冗談で学校委員に選ばれたのだが、その後忘れさられ「そういえばお前は学校委員だったんだっけ」と、言われるエピソードがあった。 この一件だけを見ても、諸星あたるが他人とは思えなくなるのであった。