☆ 未来へのミラー ☆ 宮島永太良
人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…
第11回 人生最初のカルチャーショック
私が中学生だった当時、同じ世代が主役のドラマとして「3年B組金八先生」があった。 その中では沖田浩之や直江喜一が暴力を振るう問題生徒を演じていたが、あの頃は校内暴力が社会問題にもなっていた。
私の通っていた中学校では校内暴力のようなものは一応なかったが、たちの悪いいじめや、喫煙などの不良行為は少なからず見ることがあった。 世間の影響もあってかどことなく荒廃していた公立学校の環境に嫌気がさしていた私は、友人の親のアドバイスもあり、私立の高校を受験する心づもりができていた。 例のア・テストが思うほどの点が取れなかった自分にとって、直前まで可能性が生かされる私立はその意味でも有利だった。
この頃私立受験を全面的にバックアップしてくれたのは、祖母が昔近所だったということで親しくしていた高校と中学の教諭をそれぞれ勤めるI先生夫妻だった。 この先生夫妻は早速、おじいさん先生に代わる現役大学生の家庭教師を紹介してくれた。 早稲田大学の法学部に通うSさんで、私は今でも志望校に合格できたのはこのSさんのおかげ大と感じている。
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私が志望した高校は東京にあり、小学校から大学までの一貫教育で、うまく行けばそのまま大学にも、という狙いもなくはなかった。 しかし目下は高校に受かることが先決事項である。 自分なりに受験に向けて努力した記憶はあるが、その努力が実り、1981年4月、晴れてその高校に入学することができた。
しかし入学してみて、最初の関門は通学距離だった。 自宅のある小田原駅から小田急線で1時間。 ドア・トゥ・ドアなら1時間半はかかっただろう。 この学校、男子には制服があるが、女子は私服(下はスカートに限るが)という当時としては変わった形態だったが、女子だけでも「私服」という要素が入るだけで「ファッションセンス」というものが校内に飛び交うのである。 男子もスーツの上下が決まっている以外は、わりとゆるかったので、色のついたワイシャツやデザインソックスなどをはいて来る者も多かった。
そこで困ったのが私である。 今まで決まった制服さえ着ていればよく、学校以外は町の洋品店で買った服を着ていればよく、「ファッションセンス」などほぼ悩んだことがなかった。 しかし、ここは東京の、しかも私立学校である。 地元が東京にセンスが劣るとは言うつもりはないが、決定的に違うものがあるのも現実だ。
また、さすがは一貫性の学校である。 その教育環境は行き届いており、公立中学で受験勉強を中心にしていた輩が入りこめるものではない。 付属中学からの同級生に聞けば、何しろ中学時代から彫金、管弦楽などの選択授業をやっているのである。 それらの意味で高校1年次は、知識的ギャップ、センス的ギャップで悩み続けていた。
また女子生徒もいわゆる美形が多かった。 その意味でも、中学時代の一時期、女子生徒と話をするのが苦手になった私が、再び若干違う意味で女子と話す時、緊張感を味わうようになっていた。 女子生徒どうしが「うちの学校の女子って顔で、取っているみたいだね」と話していたが、「お前自分で言うな!」と思いながらも、否定しようのないくらいの美形女子揃いであった。 とにかく、「東京の私立」というのは良くも悪くも人生最初のカルチャーショックだった。 そんなこんなで一年悩み続けながら通ったが、1年次終わり頃からは次第に環境に慣れるようになっていた。
当時担任だった国語の先生は、ラグビー部の顧問らしく強面の人だったが、「お前、入学当時は枯れ枝に制服がひっかかっているみたいだったが、最近、多少はたくましくなったな」と言ってくれたものだった。