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Friendsには、ジャンルを問わず宮島永太良の友人知人が登場!
毎月、ショートインタビュー、コメント、活動予定をお伝えします。
 

玉征夫さんへのインタビュー 前編

 
玉征夫さん
 

◇玉征夫(たまいくお)さんプロフィール

玉征夫さん

アーティスト
1944年11月19日岐阜県高山市生まれ、蠍座、A型
現在、千葉市在住
<主な個展>
1982〜2012 画廊春秋(東京)、村松画廊(東京)、真木画廊(東京)、
Atelier Meidsem(パリ)、J2GALLERY(東京)他
1991〜1998 ギャラリー宏地(東京)
2003〜2016 SPC GALLERY(東京)
<主なグループ展>
1993〜1998 DRAWINGS ギャラリー宏地(東京)
2012 画廊の系譜「浅川コレクションと1960〜80年代日本の美術」足利市立美術館(足利)
2012〜2016 HOLONIC「個と全体の調和を図る」GALLERY UNICORN(川越)
2016 連画のいざない 足利市立美術館特別展示室(足利)他 
☆ https://www.facebook.com/ikuo.tama?fref=ts  ►


 5月初旬、日本橋兜町にある工房「リトグラフラボ・ツクハエ」で、主の玉征夫さんに、人生エピソードと共に絵との関わりについてお尋ねしました。

宮島通信編集部(以後・M):
今日はよろしくお願いいたします。  最初に、玉さんの幼い頃の夢を教えてください。
玉征夫さん(以後・T):
幼少期は第二次世界大戦直後、はっきりした夢は、なかったです。

M:では、当時の生活はいかがでした?
T:自身の記憶が蘇るのは疎開先の岐阜県明智からだけど、記憶が強くなるのは、戦後母の生家がある名古屋へ移り、生活が落ち着いてからです。  そこは山王と言い、東京で言えば木場の様に材木を扱う地域。  印象に残っているのは夏空の下、空襲跡の焼け野原に好きとは言えないカンナが咲いていた光景。  私は周囲に散らばる不発の焼夷弾を拾い集め自宅の庭の隅に積み上げていました。  家は山王中学校の目の前にあり、イチジクの大木が2本か3本あったのを覚えています。

玉征夫さん

M:それ以前、戦争中の記憶はありますか?
T:全くありません。  でも、母の話によれば生まれたばかりの私も1945年の名古屋大空襲に遭い、死んでもおかしくなかったし、空襲を逃れた疎開先の岐阜でも親子3人で転々としたそうです。  本当に戦争なんてロクなモノじゃありません。  いつか、当時の記憶を自分なりにまとめてみたいです。

M:戦後の子ども時代はどんな遊びを?
T:今のように皆が幼稚園や保育園に通う時代ではなかったので、小学校に入るまでは近所の友だちと遊ぶのですが、地面に絵を描くのもその一つでした。  それが最初に絵を描いた記憶と言えます。

M:何を描いていたのですか?
T:クギでアメリカの爆撃機や戦闘機を描いていました。

M:戦争は終わっているのに日本の空には米軍機が?
T:当時の日本は現在の沖縄と同じ、アメリカの占領下。  だから、小牧空港も米軍に接収され、日夜爆撃機B29などが離着陸を繰り返していました。  また、近所にジープで米兵が来れば、最初は「ギブミーチョコレート!」、それが手に入れば「ヤンキー、ゴーホーム!」と、私を含めた子どもたちは叫んでいました。

M:物心ついた頃に米軍機を見ていたとは!
T:青い空に走る飛行機雲は心に残っています。  考えてみれば日本全体がそんな感じでしたね。  それで、母も通った八熊小学校に入って最初に描いた絵が、「双胴の悪魔」と呼ばれ、B29同様いつも頭の上を飛んでいた米軍戦闘機のロッキードP38でした。

玉征夫さん

M:P38は何を使って描いたのですか?
T:入学祝いに母方の叔母からいただいた金銀入りの36色のクレヨンで初めて描きました。  光る機体の仕上げには金色を選び、その結果、絵は学年代表に選ばれ、学校の玄関通路に貼り出されました。  だから私の絵の出発は飛行機。  それを思い出したのは、1999年の夏、友人に誘われるままペルーに赴き、約1ヶ月滞在し、「ナスカの地上絵」をセスナの機上から見た時でした。

M:では、小学校から描き続けているのですか?
T:当時は文章を書くこと、絵を描くことを学校が奨励していました。  それがきっかけにはなりましたが、私自身、自由にクギで地面に描くのは好きだったけれど、画用紙に向かって描くのはそんなに好きではありませんでした。  でも先生の勧めるままに描いていました。  加えてテープレコーダーができた小学3〜4年の頃には、NHKの子ども向けラジオドラマ「養鶏場訪問」にも出演。  間違いなく芸術、文系の動きですね。

M:やはり絵がお上手だったのですね。 小中学校、ずっとその感じですか?
T:3人の妹の面倒を見る意味と、賞に入れば景品をいただくこともできたので写生大会に出ることが多かったです。  それで中学3年生の時には中日新聞社賞をいただきました。

M:何を描いたのですか?
T:風景画、中村公園にあった藤棚です。  その時は新聞に載ってしまったので、学校にもわかってしまい、改めて全校生徒の前で表彰されました。

玉征夫さん

M:しかし、絵は基本的には好きではなかった?
T:今もそうかもしれないけれど、そこが難しいところです。  積極的に向かうのではなく、描くまではイヤだけれど、一旦始めれば真剣になるのかな(笑)。

M:その後の進学先は美術系ですか?
T:父の反対で断念。  紆余曲折の後、一念発起して正式に試験を受け、静岡県浜松市にある某自動車メーカーの宣伝課に入りました。

M:重要なポジションですが、仕事はどんな内容でしたか?
T:会社の広告宣伝の企画立案し、東京の大手広告代理店に仕事を発注していました。

M:そこには、何年勤めたのですか?
T:2年ちょっと。  何故か私はそれぐらいしか勤まらないみたいです。  ただ、あの時は東京への転勤希望が会社に受け入れられず、気候は良いけれど狭い地域コミュニティでの人間関係に、若い私が戸惑ったのも一因かな。

M:その時は絵をやろうと思ったのですか?
T:そうは考えてはいなかったはずなのに、以前、その頃の荷物を調べていたら浜松の画材屋「彩画堂」で購入した0号の木枠が出てきたので、描く気が少しはあったみたい。  きっと何かをやろうとしていたんだ。

M:辞めてどうしたのですか? 絵は?
T:まだ描いていません(笑)。  東京の広告代理店に入りました。

次号に続く

玉征夫さんと宮島永太良
 

「政岡玄ちゃんの音楽便り」第10回

みなさんお元気ですか?
ゴールデンウィークは、親が急遽入院で少しバタバタしました。
で、遠出はできず近くのイベントに参加して来ました!

ちょっと落ち着いた時、気分転換にスクラッチくじを買ったら、1枚が3000円、もう1枚200円と、連チャンで当たりましたが、今回は熊本地震被災者のために【マルタ募金】へ寄付させていただきました。

津山城お城跡の鶴山公園で行われた最強牛肉ガチバトル「牛魔王選手権」に参加。 野菜ジュースも飲んでのぞみましたが、参加してない観光土産屋の隣の「ソズリうどん」が激ウマでした♪。

牛魔王選手権ポスター ソズリうどん

「日本で2番目の規模」扇形型機関車庫も観に行きました。
イベントに並んでいたら、横から同級生のお父さんと聞く市長に「好評だよ」言われました(笑)!

扇形型機関車庫

これからも徐々にイイ曲を作っていきます。
どうぞよろしくお願いします♪

【iTunes】☆世界リリース☆
各国情報〜
☆GEN MASAOKA☆
☆3/3Ø☆3=ミ・3=ズ・Ø=べ
世界リリース♪
【アメリカ、ブラジル、英国、イスラエル、南アフリカ、ペルー、フランス、
ロシア、インド、台湾、太平洋諸島フィジー島、ネパール、フィリピン etc】
☆【Don't give up "Sailing"】
☆【Stay with me】
☆【Pain rain】
日本:https://itunes.apple.com/jp/album/clover-rail-stone-single/id1097406575 ►

世界243各国へ配信〜
☆是非☆ダウンロード&ストリーミングなど聴いて下さいませ♪
試聴は → http://youtu.be/y_IHNjQkmDA ►


【政岡玄Soul&Rock】ブログ♪:http://ameblo.jp/masagen ►
HP→http://www.gencrs.com ►

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