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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありません。 宮島永太良がこれまで歩んで来た道のりを思いを込めてほんの少し振り返っています…

第9回 マイペースな中学生

小田原駅

 小学校卒業後の1978年4月、地元の公立中学に入学した。  市内四つの小学校の卒業生が入る学区だったが、小学校の4倍の同級生がいたわけではなく、二倍強くらいであった。  同じクラスには、幼稚園の時以来会う同級生、また小学校で同じクラスだった者もいた。  その者たちが新たな友人となって行くのだからなんとなく不思議である。  担任は女性の社会科の先生で、皆の親くらいの世代だった。  合気道をやっていただけあり、女性だが大変威厳を感じる先生だった。

暖簾

 後で分析すると、ここの中学生のベースになっている小学校はA校(私の出身校)、B校、C校 、D校とあり、そのうちA校とB校は多人数、C校とD校は少人数だったようだ。  またA校とC校は住宅地区、B校とD校は商業地区、という違いもあった。  新一年生の我がクラスも、男子生徒に限った話だが、やがて大きく二つの友人グループに分かれていった。  おおまかには住宅地区校チームと商業地区校チームとなって行ったように思う。  もちろんこれは狙ってしたものでなく、必然を前提とした偶然だ。

かもめ

 商業地区校チームは全体的に店屋の息子が多く、芸能人にたとえればお笑い芸人型の者が多かった。  一方住宅地区チームは勤め人の家出身が主で、芸能人にたとえるとバンド人型が多い。(必ずしも音楽をやるわけではないが)とかくお笑い芸人グループは、授業中もひたすら大声でギャグ等を言 っている者が多く、当時極度の恥ずかしがり屋だった私には到底真似のできないことであった。  ちなみに私はどちらのチームにも属さないわずか4人の第三勢力にいた。  このグループはどちらかと言えば、バンド人型かつ我が道を行っているような者が多かった。  私は芸人のようにおふざけもできず、バンド人のように恰好もつけられない半端な存在なのに、少数の論理でこのグループに入っていたのも妙な話だ。

小田原城の橋

 この頃の私はかなり怖がりだったように思う。  体育の授業の説明でのこと、最初に柔道から始めるというので驚いてしまった。  自分にとってそれまでは、格闘技というのは「怖いもの」であった。  もちろん小学校時代に習っている友達もいたが、一般人が大相撲に 入門した人を見ているような他人事だった。  それが突然「お前も大相撲に入れ!」と言われたようなものだ。  しかし実際柔道の授業が始まってみると、柔道着は上着しか用意がなく下は短パン。  そんな中途半端な格好でクラスメイトとじゃれ合っているだけのような感じだった。  むしろふざけている生徒を怒鳴って怒る先生の「ダメじゃないかッ!」の声のほうがよっぽど怖かった。

表示板

 そして「怖い先生」と言えば思い出すのが、当時3年の担任だったので直接接点はなかったが、戦争中特攻隊に入隊していた先生だ。  すでに入学前にあるお母さんから「特攻隊出身だけあってとても怖い先生がいる。すぐに生徒を往復ビンタする!」等の情報を聞いていたので、その先生を実際に見た時は「あの先生の前でバカなまねはできない!」と決め込んでいた。  近くに住んでいた仲の良い3年生の先輩に「あの先生怖いんでしょう?」という話をしたところ、「いいや、すごく面白い先生だよ」 という答えが返ってきた。  どうも噂と違うらしい。  実際にその先生が生徒と話している姿を見ると、「何やってるだあ。 しょうもねえなあ」等、小田原特有の言葉(祖父も話していた言葉)を話し、にこやかに冗談を言い合っていた。  そして非常に生徒思いの先生だということも順次わかった。  どうやら往復ビンタをされた生徒はよほど悪いことをしたのだろう。  それが短絡的に「特攻隊出身だから厳しい」と決めつけられたのだと思える。  その先生は他の教師仲間に「俺は本当なら生きて帰ってはいけなかった人間だ」と話して自分を律していたらしいが、戦後の余韻がまだ生で残る時代だったと言えるだろう。

  海岸

 柔道の授業で気持ちがほどけたのか、あれほど格闘技が怖かった私が、友人の誘いで剣道部に入ることになった。  それでは剣道部の入部によって、武道で鍛えられた中学時代に変わったのか、と言えば、そんなことはなかった。  初心者なので最初は素振りの練習ばかりだったが、一緒に素振りをやっている友達何人かと気が合ったので、面白半分な気持ちで部活動をしていた。  同じ一年生でも既に有級者などはそれなりに「試合」の練習をしていたが、早くそうした練習に移れるようになろう、という向上心は全くなかったように思う。  そうした無気力さは部活動に限らず、この時代の自分全般に言えることだった。  小学校時代得意であった絵も、あえて頑張って伸ばそうなどという発想も起らなかった。  (美術に関しての無気力は別にも原因があったが、それは後述する) 小学校高学年の頃には 「自分が大人になったら大物になりたいなあ」等とたまに思ったりしたが、(かと、言ってなんらかの目的があったわけでもないが) 中学時代にはそうした思いもほとんど薄れていた。

(写真:関 幸貴) 
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