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☆ 未来へのミラー ☆      宮島永太良

人の記憶は定かではありませんが、これまで歩んで来た道のりを宮島永太良が思いを込めてほんの少し振り返ってみます。

第1回 生家

 私は1965年(昭和40年)4月7日水曜日、神奈川県小田原市で生まれた。  生まれた時の家族の人数は、私を入れて8人だった。  私以外の7人は、父、母、祖父、祖母、そして母の弟、祖母の姉、また旅館時代(後述)から仲居をしていた人が、一人そのまま住み込み家政婦として残っていた。

小田原提灯

 この生家に、私は2歳4ヶ月くらいまで住むことになるが、その家は小田原駅西口の真ん前、駅から歩いて2〜3分の所だった。  ただ、その頃の西口は、今と様子が違っていた。  今、駅前はロータリー、中央に昔の小田原城主・北条早雲の彫像があることで知られているが、私が生まれた頃は、駅前がいきなり小高い丘になっていて、駅からダイレクトに上り坂があったようだ。  幼い頃の私の記憶にも、この坂の存在はかすかに残っている。 小田原駅西口には今も一部だけ丘として残っている箇所があり、その頃の面影をわずかに残していると思う。  余談だがそこの上には、全国でもファンの多い有名な焼肉店がある。

小田原駅

 この生家では私が生まれる15年ほど前まで、旅館が営まれていたらしい。  経営者は祖母だったが、祖父も箱根にある別の旅館を晩年まで経営していたので、夫婦別々の旅館経営者だったわけだ。  そのため、家はかなり広かったようだ。  旅館として使っていた母屋だけに、たとえ8人の大所帯といえどもかなり余裕のある使い方だっただろう。

 記憶はいつ頃からあるかと言われたら難しい。  ある時期から急に記憶に残り初めたというわけでは勿論なく、断片的に覚えていたり、いなかったりというのが普通だから。  ただ、この生家と周辺についても、断片的に覚えている。  先程の坂をはじめ、風呂場に虹色のマットが敷いてあったこと、家で飼っていた犬がおり、ネット張りの小屋の中で吠えていたこと、裏庭につくしがたくさん生えていたのと、カタツムリが多くいたのも僅かに記憶に残っている。  門は木造で、小さな窓がいくつか付いていたのを覚えている。  家族に抱かれた時、ちょうど目の高さになる位置にあったのだろう。  

Oの夜景

そして家の真ん前に新幹線小田原駅のホームがあり、新幹線がいつも出入り、あるいは通過していた記憶もかすかに残る。  新幹線は私が生まれるちょうど一年前の開通で、当初はひかり号とこだま号しかなかった。  小田原はこだまのみの停車駅だったので、出入りしていたのがこだま、通過していたのがひかりということになるだろう。

 断片的にしか覚えていない生家ではあるが、今でもその記憶は自分の中で「故郷」としての大きな存在感をもって支配している。  もちろん懐かしく心地よい記憶である。  そして、まもなく2歳になってから、小田原市内の別の家に引っ越す日がやって来る。

つづく

Essayは隔月連載です。 次は12月27日号に掲載。

(写真:関 幸貴) 
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