TOPTalk : 対談

AKIRA シモンさんインタビュー!


AKIRA シモンさん

◎AKIRA シモン(あきらしもん)さんプロフィール

AKIRA シモンさんspace
space
アーチスト
1960年9月19日、熊本県熊本市生まれ、乙女座、B型。
1983年 和光大学人文学部芸術学科卒業。
1988年 銀座ギャラリー・オカベで個展。以後、個展、グループ展多数参加。
1998年 新潟県(株)福田組「感動創造美術展」で優秀賞を受賞。
現在、横浜在住。
 

シモンさんは、独特な表現で明るく力強い作品を制作し続け、宮島永太良とは10年近い親交がある。 
また、最近では横浜を中心しにたアーチスト活動で新たな接点が生まれた。

盟友シモンさんにアートを志した動機を聞いた。

編集部(以後・Q):
シモンさん、宮島永太良さんとの出会いを教えてください。
AKIRA シモンさん(以後・A):
もう10年ぐらいになるのかな。かつて、代官山にあったJトリップギャラリーで会いました。  2004年の個展前だったから、前年末だったと、記憶しています。

絵具

Q :初対面の永太良さんの印象はどうでしたか?
A :当時、そこに勤めていた佐藤明夫さんの紹介でした。  最初は、お互い挨拶程度で、あまり言葉を交わさず、同じ大学出身だと分かるのも随分後になってからでした。

Q :今では、「宮ちゃん!」と呼ぶ程、親しい間柄なのに意外です。
  現在の様なお付き合いになったのは?
A :確かに自分は、距離が近い人を「ちゃん」付けで呼びます。  でも、それは初対面後、グループ展等で酒を酌み交わし、語り合う機会が増えるにつれ、宮島永太良さんの誠実な人柄に触れたからです。  だから、今では「宮島さん」と、呼ぶには抵抗があります。  ただし、宮島作品から受ける印象はユニークです。

シモンさん作品

Q :ユニーク?
A :何と言うか、宮島作品からは他とは違う多面性を感じます。  例えば、普通の絵描きが、絶対にモチーフにしない弁当箱、新幹線、富士山、雷神、テングのお面等を選び、1枚の作品にその幾つかを描き込んでしまう。  そうした感覚で発想をして、表現ができるアーチストは、これまでそんなにはいません。  だから、最初に見た時は、これまでの自分が知っている純粋な芸術作品とは遊離し、言葉も出ず、大変ビックリました。  自分はある種のカルチャーショックを受けたのだと思います。  あれが不思議な宮島ワールドへの入口だったのかもしれません(笑)。

Q :さて、話題はシモンさんに移ります。
  芸術分野に進むと決めたのは、何時頃ですか?
A :本当に絵を志したのは、九州学院高校3年生の春でした。  実は当時、法学部を目指していたのですが、授業で森鴎外作の「舞姫」の実話に近い物語に触れ、読み進めるウチに鴎外が文学に目覚めて様が深く自分の心に入って来ました。  それで、自分の進路はこれで良いのか? 人生は面白いのか? と自問自答。  結果として芸術学科を選択。  父は、嘆き悲しみましたが、美術教師になることを約束して進路変更を許して貰いました。  しかし、大学で教職課程はとりませんでした(笑)。

Q :絵は得意だったのですか?
A :中学、高校共に美術部には全く興味もなく、縁もありませんでした。  ただ、遠い昔の記憶で、母が日めくりのカレンダーを剝がし、幼かった自分に「裏がもったないから、何かを描いてから捨てなさい」と、言われていました。  また当時、新聞の日曜版に有名絵画の連載があり、それをよく母に見せられました。  芸術関係には縁のない家系で、この経験が自分の素地になっていると思います。

シモンさんと作品

Q :見ているだけで、絵を描いてはいなかった?
A :そうです。  同級生で幼なじみの高林君のお兄さんが、熊本大学の教育学部に通い美術の先生を目指していたので、小学館の絵の全集を持っていました。  だから、そこでも高校時代まで遊びに行く度に、画集を見ていました。

Q :やはり、見ている時間は長そうですね。
A :絵を見るのが、好きだったからです。  こう考えると、アートを志した糸口は、母ですね。  ただ、全く描かなかったワケではありません。  確か小学生高学年の時でした。  「母の日」の作品公募があったので、これも母に勧められて描き応募しました。  鉛筆で描いて応募したら入選し貼り出され、賞品にバトミントンセットを貰いもらいました。  この一連の経験が描くにあたって自信になりました。  そして、これが高校時代の進路変更の原点だと思います。  ただ、話は前後しますが、小学校時代に教わった美術の先生が凄く変わった人で、その影響もかなりあったと思います。

シモンさん作品

Q :どんな先生でした?
A :曖昧な記憶ですが、その先生は担任を持たず美術だけを教えてくれた気がします。  後々、知ったのですが、熊本県立美術協会の会員で、ご自身でもお描きになっていた様です。  とても怒りっぽい先生で、ほぼ全員の生徒が煙たがっていました。  ただ、週一の美術の授業はユニークでした。

Q :どの様に?
A :例えば、いつも次の授業までにスケッチを10~30枚描いて来る宿題を出されました。  美術の宿題はあまりないですよね。  まして、そんなに大量には(笑)!  そして、ある時、授業で水性サインペンを使っていたので、たまには色を付けてみようかと自分で考え、桜の絵を鉛筆書きした後、ピンクのサインペンで塗りました。  自分としては提出したら、褒められると思っていたのですが、「桜の花は、こんな色か?」と聞かれ、見当違いの反応にただ驚きました。  見直しても、私にすれば桜の色でした。  そうしたら先生が、「桜の花は、こんなにピンクではなく、花びら1枚1枚がたくさん重なって、あの色になっている」と、指摘。  またある授業では、コップを題材に15分でそれを描かされました。  そして、同じ題材で描く時間をどんどん短縮して最終的には15秒まで行きました。  美術の授業は一事が万事、その調子でした。  だから、その経験が心の何処かに宿っていると思います。

Q :幼い頃からのお話をありがとうございました。  大学時代のエピソードの楽しそうですが、現在影響を受けているアーチストはいらっしゃいますか?
A :ロコ・サトシさんです…。

次のAKIRA シモンさんへのインタビューは、今秋掲載予定です。 
乞うご期待!

(文・写真 関 幸貴)
Copyright © 2010- Eitaroh Miyajima. All Rights Reserved.