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造形作家/佐藤伊智郎さんインタビュー!


佐藤伊智郎さんのアトリエで

◎佐藤伊智郎(さとういちろう)さんのプロフィール

佐藤伊智郎さんspace
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造形作家。
彫刻家の佐藤健次郎さん、美術教師の佐藤芳子さんのひとり息子として、
1968年9月30日埼玉県川越市で生まれ、育つ。 天秤座、A型。
武蔵野美術大学空間演出デザイン科ファッション専攻卒業、同大学大学院空間演出デザイン専攻卒業。  大学院卒業後は作品制作をしながら企業のデザイナー、公私立中高校、東京都特別市民講師、専門学校の講師を歴任。  現在は、造形作家として川越市にアトリエを構え、制作活動に専念している。
展覧会は、1994年/六本木MBS画廊の初個展「夢」を皮切りに、1998年以降、ほぼ隔年毎に銀座石川画廊で個展開催。  グループ展、アート企画等のイベントにも、積極的に多数参加。  2011年夏には、東日本大震災復興支援のための「アートの力(ちから)銀座画廊スタンプラリー」を主催、銀座の画廊や美術業界と共にアートの可能性を示唆。
2011年12月日展入選(国立新美術館)。
ホームページ:http://www.geocities.jp/ichiro_art/
アートの力:http://www.art-chikara.com/
 

佐藤伊智郎さんへのインタビュー

編集部(以後・Q):
何時頃から何かを作ることに興味を持ち始めましたか?
佐藤伊智郎(以後・A):
保育園の頃だったと思います。  子どもの足では遠い地区に通園していたので、帰宅しても近所に遊び相手はなく、祖母に見守られ、ひとり遊びが多かったです。  その遊び道具として、絵よりも、おもちゃ作りをしていました。

Q :既製のおもちゃでは、遊ばなかった?
A :はい。  当時、父は作品の制作で忙しく、母もまた教え子から慕われる熱血の美術教氏、学校教育に力を注いでいたので、親におもちゃを、ねだったりする事には、幼いながら抵抗が有りました。  だから、ひとりで作り、遊んでいる事が多かったです。

Q :その影響で、造形作家の道を志したのですか?
A :いいえ、成長してからは、父を通して垣間見える旧態然とした美術の世界に魅力を覚えず、高校生の頃は理系の工業デザイナーを目指していました。

Q :しかし、進学した大学は美術系ですね。
A :実はひとつだけ、努力しても、どうしても出来ない科目があったからです。

佐藤伊智郎さんと作品

Q :不得手な科目とは?
A :英語です。  元々理系科目の方が得意だったので、志望分野も高校2年生まで理系大学でした。  ですが、受験科目の英語がクリア出来ず、進学先を実技で勝負できる文系大学デザインに変更しました。  そのお陰で、2年間の浪人を経て武蔵美術大学に進学しました。  でも、もっと英語ができたら、私の創作表現領域は、今とはかなり違っていたかもしれません(笑)。

Q :どんな大学時代を過ごしました?
A :学べる時だと考え、興味がある講義は単位に関係なくとりました。  毎日、空き時間なく講義を受け、その状況で作品制作も行い、忙しいけれど充実した時間を過ごしていました。  また、当時はバブル最後の時代、大学の芸術祭で4年間連続でファッションショーの参加・イベント企画運営に携わり、企業との渉外等も行いました。

Q :楽しそうな大学時代、卒業制作は?
A :ファッション科に在籍していましたが、卒業制作で服は作らず、環境破壊をテーマにしたディスプレイを作りました。  作品は、ファッション科では不評でしたが、他の学科からは好評で、空間デザイン科の大学院に進みました。

Q :卒業後は?
A :大学院時代から働いていた学校の美術教師を続けるつもりでしたが、国の教育課程が変わり、学校側のカリキュラムの変更で続ける事が出来なくなると同時に、就職活動の時期も逃しました。  でも、タイミング良く友人、知人、先生から声が掛かり、パソコンスクール講師、企業デザイナー、美術系進学校の教員、幼稚園の先生、純銀アクセサリー通信講座の講師として働きました。  加えて、銀座にある画廊のオーナーの奥様が室内装飾を大変気に入ってくれ、銀座の画廊で初企画個展を開催。  幸いなことに、その関わりは現在も続いています。

佐藤伊智郎さん

Q :美術をベースに、お仕事は多岐に及んでいますね。
A :でも、そのために体を壊したことがあります。

Q :何時頃ですか?
A :33歳でした。  飲食店の社長が個展に立寄り、気に入ってくれたのがご縁で、赤坂の創作料理のお店の室内装飾一式を任せていただきました。  当時は、教員や通信講座の講師として働いていたので、装飾の仕事で現場に立ち会い、制作できるのは、夜だけ。  そのため、朝から午後7時まで学校で美術を教え、その後、車内で仮眠して深夜12時から朝6時まで赤坂で職人さんと一緒に作業をして、また学校へ、そんなハードスケジュールの毎日でした。  そして、その生活が3〜4ヶ月続いたある朝、全身が動かず起き上がれなくなり、とうとう学校の授業に穴を開け、初めて自分の限界を痛感。  学校にお願いして教員を辞職。  それを機に貯金を全て使い自宅にアトリエを建て、美術の仕事に専念することにしました。

Q :造形作家に専念していかがですか?
A :現在も作品制作をベースに博覧会等イベント企画に参加、デパート等の商業方面でも活動をしていますが、その動きの中で、『やって良かった』と、思う瞬間があります。

Q :どの様な時ですか?
A :お客さんから『ありがとう』の言葉を聞いた時です。  デザイナーの仕事は、良い作品よりも、『売れる、売れない』と言う数字の世界。  教師は、目の前の生徒にしか教える事が出来ません。  また、生徒から『教えてもらって当然』と言う存在になりがちで、『教わる事の、本当の大切さ』が伝わりにくいです。  でも、アーティストは、老若男女関係無く喜んでいただけるだけでなく、自身の努力で人を元気にする事・希望を見せる事が出来ます。  加えて、私はアーティストという自由な肩書きは、相手の肩書きに左右される事無く話が出来る行き方だと思っています。  その立場なら、世の中を良くする手助けが、芸術を通して少しでも出来ると信じています。

佐藤伊智郎さん

Q :将来的にはいかがですか?
A :今考えていることを確実に進め、ある程度年齢を経たら自分の経験を伝え、支援出来る側に回りたいです。  培った思いを、全身全霊で次世代に伝え、そうすることで、美術の未来の一助になれればと考えています。  現実を憂えるくらいなら、これからも常に動いて行きたいと思っています。

今日はありがとうございました。

*参考資料:「紬」2012年6月号

(文・写真 関 幸貴)
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