スペインから日本に活動拠点を移した画家 / 加藤力之輔さんが登場。
今号は、ご自身を語ります!
◎加藤力之輔(かとうりきのすけ)さんプロフィール
画家 横浜市出身、鎌倉在住。 1944年6月13日生まれ、双子座、A型、5人兄弟の3番目。 1972年からスペイン国立プラド美術館で4年間〈ティツアーノ〉を模写研究。 マドリードの美術研究所で人体デッサンの修練でモノの見方を学び続ける。 日本、スペインで多数個展開催。 2004年より覚園寺(鎌倉)・新善光寺(京都)・梅上山光明寺(東京)で 異文化空間展開催。 |
加藤力之輔さんへのインタビュー Q&A
編集部(以後 Q):
何時から絵に興味を?
加藤力之輔さん(以後 A):
これまで専門的な美術教育を受けた経験はありませんが、絵は子どもの頃から好きでした。
でも、特別ではなく、運動や木登りと同じぐらいの存在でした。
興味を持ち始めたのは、東京芸大を出たての若い先生に立派な画集でルーベンスの裸婦等の作品をたくさん見せられ、驚き喜んだ中学時代。
そして、課題のペンで描いた植物の絵を先生に見せたら、『ルネッサンスのドイツ人画家デューラーみたいで、良い』と、言われたことを記憶しています。
あれからかな…
Q :ご家族でアート系の方は?
A :母が、葛飾北斎等の浮世絵作品を持っていました。
Q :高校では?
A :県立鎌倉高校に通っていました。
やはり、昔からアーチスト関係の方も多く、色々な文化が宿る土地柄で美術も盛んでした。
当時、学校には既に美術教室もあり、私は入学と同時に美術部に入り、美大進学を考え勉強をしていました。
ところが、学生運動の激しい時代。
自分なりに考えて大学へ進むのをやめ、山も好きだったので林野庁の技官になりました。
でも問題集を丸暗記して入ったので、普通高校出身の私には山の技術がありません。
それを見かねた上が人工造林が多く、山を学べる環境にあった天城営林署に配属。
そこでは山葵田近くの独身寮に住み、オートバイで林道を巡り、木を切り、調査する仕事をして、休みには絵を描いて5年間暮らしました。
実は貯金等を考え、働く期間を自分で決めていたのです。
そして、横浜に戻り、アルバイトをしながら描いていました。
でも、どうしても人物、特に群像に取り組みたくなり、渡欧を真剣に考えました。
Q :群像?
A :昔、青木繁の作品『海の幸』を見て、鮮烈な印象と感銘を受け、それが心に深く宿り、私も描きたいと思ったのです。
そんな時、父の知り合いのスペイン関係の方から『国立プラド美術館では、模写ができますよ』と聞き、群像を描くための好環境に行けると、思い決断。
1972年夏に横浜港から海を渡りました。
Q :ご家族の反応は?
A :5人兄弟だから、ひとりぐらい変わったのがいても良いだろうと、両親は微笑みながら経済面も含めた色々バックアップしてくれました。
また、スペインで結婚した妻にも物心両面で支えてもらい、制作を行っていました。
今、考えれば、私がこうして描けるのは家族のお陰、本当に心から感謝です。
Q :スペイン生活はいかがでした?
A :当時、スペインはフランコ時代、ある意味鎖国状態。
でも、私は修道院の紹介でプラド美術館と通っていたデッサン美術研究所にも近く、今も借り続けている家に住み、お酒を飲まないので、食事をして絵の材料が買えれば良かったのです。
ただ、1ドルが360円の時代、持ち出せるのが500ドルだけなので、物価が安いスペインでも暮らせるのは2年ぐらいと考えていました。
しかし、営林署の仕事で厳しい環境で暮らした体験もあり、何とかなると思っていましたが、気が付けば、その生活を40年間も続けました。
よほどスペインが合っていたのでしょう(笑)。
Q :どんな感じの生活?
A :模写研究をしていた4年間、昼はプラド美術館、夜はデッサン研究所に通い描いていました。
そして、模写を終えた後も昼は制作、夜は研究所、そのリズムは変わりませんでした。
Q :誰の模写?
A :油絵の祖であるイタリア人画家のティツアーノです。
プラド美術館には、彼の作品30数点があると同時に文献もあり、どんな材料で、何の技法で描いたかを知ることができたからです。
日本では全然分からなかったけれど、スペインの雑貨屋さんで、ティツアーノが描いたのと同じキャンバスの材料を手に入れることもできました。
加えてプラド美術館には、ゴッホ、マチス、ルノアールら、天才が学び、影響を受けた西洋絵画の本流、しっかりしたデッサンの元に描かれた作品が数多くあり、それらにも強い衝撃を受けました。
色彩は学べると思いますが、人体は見て描く体験を積むしかありません。
それで、デッサン研究所に通い始めたのです。
Q :デッサンとは?
A :尊敬する画家 / 山口長男先生も『デッサンはその時代の見方』と言っています。
若い頃は、体力視力共にあるので良く見えますが、年齢を重ねると細部は見えにくくなり、周囲の色や形だけを判別。
つまり、年齢で見方は確実に変化。
それを実感できるのはデッサン、だから、幾つになっても続けることに意味があります。
脂がのった40代の技法で60〜70代に描くのは無理。
ピカソやセザンヌらの作品を時代で追えば、その意味が分かると思います。
あと、山口先生には『根がどんどん増えて行けば、上は自然に伸びるよ』、『才能は、器に水を入れ溢れたものだよ』とも言われました。
これは、制作する上で大切な言葉です。
だから、幾つになっても毎日のデッサンが苦ではありませんでした。
Q :先頃、活動拠点をスペインから鎌倉へ移したそうですが?
A :スペインでも発表しますが、実は日本で2年毎のペースで個展を開催。
その度に作品を送り、デッサンを除いた全作品が日本にあったので、それの手直しをしたかった。
あと運良く、鎌倉に広い家が借りられたので、原点に戻って、自らの画境を掴み直し、膨大なデッサンを元に『群像』を含めた新たな作品制作を日本で挑みたかったからです。
マドリードと鎌倉、光も含めて、空気感、自然環境がかなり違うので見方が変わり、使う色も変化するでしょう。
しかし、それはそれで楽しみです。
*
Q :宮島永太良さんとの出会いを教えてください。
A :横浜美術館協力会で10年程前にお会いしました。
第一印象は『優しい人だな』。
それは、現在も変わりません。
作品を初めて見た時も、私と違うけれど、『優しい絵だな』と思いました。
それ以後、宮島作品を見れば、かつての有名画家同様に私には分かる様になりました。
たくさんの画家がいる中で、作品を見れば、誰か分かるのですから存在感があります。
今後活躍して行くには、画家として大切な資質だと思いますね。
Q :最後の質問です。 宮島さんに望む事を教えてください。
A :現在、宮島さんは、絵だけに囚われず多方面で活動して、お忙しそうです。
その若い姿を見ていると、やりたい事を、考えている事を精一杯やれば良いと思います。
でも、何時までも全力で走り続けられません。
時期が来れば、自然に自分の進む方向性も見えて来るはず。
とにかく、絵描きには色々なタイプがいます。
だから、宮島永太良さんにも自分だけの道を歩んで欲しいですね。
次号、宮島永太良との対談編に続く…
(文・写真 関 幸貴)