Friends : 友達
Friendsには、ジャンルを問わず宮島永太良の友人知人が登場!
毎回、親しい視線と言葉で宮島の実像に迫ります。
◎ 時を越えて再び音楽活動に挑む、‘和さん’が2ヶ月連続で登場。
今号では音楽との出会い、ミュージシャンを始めた頃、
そして、ロンドン生活でのエピソードを紹介します♪
◎和(かず)さんプロフィール
ミュージシャン、東京出身。 3月30日生まれ、牡羊座、A型。 4人姉妹の3番目。 珠算総合二段。 20歳頃、友人からバンドに誘われ音楽活動開始。 武蔵野音楽学院でボーカルや理論を学び、 ロック、ポップスのカバー、オリジナルソングでバンド活動。 その後、ジャズシンガーとして5年間活動。 2009年からウクレレを始め、 現在は曲作りをしながら、本格的な音楽活動再開に向け準備中。 |
和(かず)さんへのインタビュー Q&A
編集部(以下Q):
音楽との出会いを教えてください。
和さん(以下A):
母が大のクラッシックを好きで、日常的に家で音楽鑑賞をし、ピアノも習っていたので、幼い頃から音楽は近くにありました。
Q:音楽は好きでしたか?
A:はい、音符が読めるだけで小学校の音楽の授業も楽しくなるじゃないですか。
だから、大好きでした。
中学校の時はクラス対抗の合唱コンクールの伴奏もしました。
出番前はプレッシャーで頭が真っ白! でも、終わった後は、クラスメートに『歌いやすかった』と、褒められて凄く嬉しかったです(笑)。
Q:高校時代の音楽との関わりは?
A:小学校からやっていた珠算で忙しくなると同時に、高校でテニス部に入り、それが面白くて熱中。
好きなCDを聴くぐらいで、音楽との距離は自然に遠のきました。
Q:高校生の頃、好きなミュージシャンは?
A:松田聖子ちゃんです。
夏休み、テニス部の友人と合宿に行く時、CDプレヤーのイヤホンをふたりでひとつずつ耳にして聖子ちゃんを聴きながら、電車で移動したことは良い思い出です(笑)。
Q:それで高校を卒業するわけですが…
A:両親には強く大学進学を勧められましたが、私ははやく社会人として自立したくて、ある銀行に就職しました。
Q:何故、銀行へ?
A:珠算もありましたが、既に姉が銀行に勤めていて、興味もあったからです。
Q:まだ音楽との接点が見えませんが…
A:2年間で銀行は辞め、元々体を動かすことが好きだったので、スポーツクラブに再就職しました。
20歳頃、そこで知り合った友人にバンドに誘われ、音楽と関わりを持ったのが、きっかけでした。
Q:どんなバンドでしたか?
A:実は頼まれると断れなくて、その頃は3つのバンドのメンバーでした。
Q:3つですか!
A:初めてステージに上がったのは女の子バンド、他はオリジナルバンドとロック、ポップスのカバーバンドに所属、計3つです。
Q:パートは?
A:始めはボーカルと言われ、『無理、無理!』と断ると、コーラスで入ることになったのですが、いつの間にかボーカルにされました。
しかし、歌っていて、自分に足りないモノを感じて武蔵野音楽学院に通い始めました。
Q:変わっていますね。 バンドに加入してから音楽学校ですか?
A:本当に計画性のない私、流れです。
慣れ親しんでいたクラッシックとは、リズムが全く違う世界だったので、改めてボーカルや音楽理論等を学びました。
Q:その時、ご両親の反応はいかがでしたか?
A:『一度就職したのに、音楽学校に行くのか!』と、大反対でしたが、『学費は自分で払う』と言って、私は意思を貫きました。
Q:失礼ですが、払えました?
A:運良く、スポーツクラブの同僚にモデルをしている人がいて、その紹介で欠員のあったテレビ番組のアシスタントになることができました。
バブルの時代ですから、経済的にも恵まれていたので学費は約束通り払うことができました。
Q:バンド活動は?
A:スポーツクラブは途中で辞めましたが、バンドは5年ぐらい続けました。
その後、リズムの面白いジャズにのめり込み約5年間ジャズシンガーとして活動しました。
ジャズに関わってからニューヨークへも何度か足を運び、マィルス・ディビスの自叙伝を読み、ジョン・コルトレーンとかインストルメンタル(器楽曲)系も全部聴きました。
Q:ジャズでは、何処のステージに上がっていましたか?
A:ジャズの先生が経営する阿佐ヶ谷の‘jazz bar KLAVIE(クラヴィーア)’から始まり、‘マンハッタン’、代々木の‘NARU’、宮島永太良さんも個展をした新宿の‘J’。
そして、米軍横田基地の将校クラブでは、月1のペースで舞台を踏みました。
Q:それだけ歌う場があったら、ジャズシンガーとしても良かったのでは?
A:恵まれていたと思います。 でも、歌えば歌う程、理想と現実の間にギャップに悩みました。
Q:何故?
A:頭の中では、『ジャズはポップスと違い常に新しい事をして行かなければならない』と言う思いに囚われ、行き詰まってしまい、現実に目を移すと、数年間、英語の曲を歌っていながら、将校クラブで話しかけられても返事ができない自分がとても恥ずかしく思いました。
それで、以前から英語に興味があったので、音楽活動を一旦休止してロンドンに留学することを決めました。
2001年のことです。
Q:期間は?
A:妹には、『もっといて英語をモノにして帰ってきたら…』と言われましたが、期間は、ちょっと短くて1年間でした。
実は、今も少し後悔しています。
でも、本当に楽しい時間を過ごせ、貴重な体験ができました。
Q:どんな体験でしたか?
A:リバプールに住んでいた友だちのお陰もありますが、人と人との出会いです。
他人へのガードが軟らかく、シンプルで私には合いました。
例えば、あるホームパーティに出掛け、誰かと知り合いになる。
同じ日、次はその人のパーティへ、日本では考えられないハシゴ状態です(笑)。
でも、これが続き人との輪がどんどん広がって行くのを感じました。
そして、向こうの人のユニークな発想を自分の目で見ることができました。
Q:ユニーク?
A:例えば、ホームパーティの時には、キッチンをダンスフロアーにするとか、模造紙で落書きコーナーを作るとか、自主的に色々楽しいことをアレンジするのです。
また、パーティとは別に倉庫を借り切って自分たちで独自イベントを行うクリエィテブな姿勢も素敵でした。
加えて、ブラジル、韓国に始まり世界中の人々が集まって来るので共通語は英語になり、異文化交流しながら意見交換できたのも有意義でした。
だから、本当に世界をもっともっと知り合いたいと思いました。
Q:それで、1年間過ごしたわけですが…
A:ロンドンでの体験があまりに良かったので、世界放浪に出ようかと本気で考えていました。 でも、ちょうどその頃、日本から…
Q:日本から?
次号に続く…