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Friendsには、ジャンルを問わず宮島永太良の友人知人が登場!
毎回、親しい視線と言葉で宮島の実像に迫ります。


◎ 大阪の淀屋橋にある‘関西イタリア語文化センター’の代表・坂口久代さんが、2ヶ月連続で登場。
今号では、高校を卒業してからの体験、そしてイタリアとの出会いまでを紹介します。
 

坂口久代さん 関西イタリア語文化センター
 

◎坂口久代(さかぐちひさよ)さんプロフィール

坂口久代さんspace
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札幌生まれ、大阪育ち。
11月15日生まれ、
蠍座、O型(坂本龍馬と同じ誕生日)。
5人兄弟の末っ子。
帝塚山学院短期大学文学部英米学科卒業。

現在、関西イタリア語文化センター代表
日本文化伝統産業近代化促進協議会副会長
社団法人アジア協会アジア友の会理事
 

坂口久代さんへのインタビュー Q&A

 
坂口久代さん

編集部(以下Q):
大学では、英文学を学んだのですね。

坂口久代さん(以下A):
はい、でも大学へ入る前の3年間は、働いていました。

Q:えっ、一度社会に出てから大学進学ですか?
A:元々大学へ進むつもりでしたが、進学する意味が分からなくて、高校卒業後、ある都市銀行の本店営業部外国為替課で働き始めました。  当時は女性にとって恵まれた職場環境ではなく、一日の勤務時間も長く、年末も男性同様に12月31日まで働きました。  また、短大卒業の後輩が入り、仕事内容が同じでもお給料でも差がつくことを知り、その体験から進学する意味を理解。  加えて、大好きな英語をもっと勉強したかったので、3年遅れで大学進学を決めました。  当時は私の様な回り道は稀で帝塚山大学で初めてのケースだったようです。

サン・ピエトロ大聖堂

Q:英語がお好きだったのですか?
A:はい、札幌にいた小学校4年生頃、YMCAが野はらにポツンとあり、そこにいた宣教師のお婆さまにとても可愛がってもらいました。  だから、英語は耳から自然に入り慣れ親しみました。  中学校で大阪に来た時には、英語の教科書“Jack & Betty”は全て読めました。 年齢がわかってしまいますね(笑)。

Q:ひとりだけ年上の大学生活はいかがでしたか?
A:入学試験場で父兄と間違えられて『控え室はこちら』と手招きされ、大学入学と同時に、私は先生から、『○○さんは、3年間の社会経験があります』と紹介されました。  それ以降、同級生全員から親しみを込めて『お姉ちゃん!』と呼ばれ、本当に楽しい学生生活を送りました。  皆、私の本名を知らないかもしれない(笑)。  そうそう、学費は社会人の時に貯めたお金でほぼ払いました。

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Q:大学卒業後は?
A:卒業と同時に23歳で同年齢の主人と結婚。式は、5月に行い、大学時代のクラスメート大半が参列してくれました。  また、先生も来てくださって、私が卒論(ヘンリー・ジェームスの作品)を英語で書いたと紹介してくださいました。  この事も帝塚山では初めてのことだったそうです。

Q:結婚後は?
A:農業を営む旧家に嫁いだので、6月に生まれて初めての田植えをしました。  でも、私が植えると、稲がまっすぐにならず、曲がるので『ヤメナサイ』と、言われました(笑)。

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Q:では、英語や社会と疎遠になったのですか?
A:いいえ、主人の仕事で、その年の9月にイギリスへ赴任。  海外生活を送り、帰国後は、主人は米国の会社に入り、10年間在籍していました。  私は同時通訳の必要性を感じ、その世界の第一人者である村松増美先生に師事、勉強を始めました。  同じ頃に、子どもも生まれましたが、嫁ぎ先の協力と理解を得て、約10年間、夫婦でヨーロッパからアフリカまで世界中を仕事で飛び回っていました。

Q:仕事内容は?
A:テレックスを打ち、主に取引先への対応、海外では秘書兼通訳として彼のビジネスサポートをしていました。  ただし、先々の事を考えて海外への往復移動は夫婦で必ず違う飛行機に搭乗しました。  これで私自身の自立を促したのかもしれません。

Q:仕事オンリーの生活でしたか?
A:そうでもありません。  息を抜ける時は抜き、それなりに楽しんでいました。  また、仕事以外にもボランティア活動で1979年にアジアと衝撃的な出会いをし、アジア諸国へ水支援を行う『社団法人アジア協会アジア友の会』に入会。  今では、4,000人以上のメンバーが関西にいます。

坂口久代さん

Q:公私共に多忙な日々ですね。
A:はい。  でも、夫婦で世界を駆け巡る生活が10年続いた頃、一大変化が訪れました。  義父の体の具合が悪くなったのです。  土地、相続等、色々考えた結果、私たちは仕事を辞め、農地を5面のテニスコートにしてテニスクラブの経営に挑みました。

Q:一大転機ですね!
A:はい、そして大阪城築城400年記念祭の年、1984年4月29日、テニスクラブはオープン。  名まえは『千成びょうたん』の太閤さんと地名の『ひょうたん山』に因んで、“カラバッシュ*・テニスクラブ”としました。  仕事の舞台は海外から国内に移りましたが、経営マネージャーをしていた私の忙しさは、変わりませんでした。

Q:イタリアとの出会いは、その頃?
A:まだです(笑)。  タイの要人の方の通訳をしている時にご縁があって、1990年、テニスクラブにタイの宮廷料理レストランを併設オープン、アジア系のワーキングビザの更新以外、順調に行っていました。  そして、あの阪神大震災です。

坂口久代さん

Q:大震災?
A:阪神大震災の影響で神戸のおいしいイタリアンレストランが閉めなければいけなくなりました。  一方、当時のこちらとしては、レストラン・ウェディングをガーデンでやりたい、他にも敷地内でプロデュースできるかもしれないと考えました。  そして、それに向く料理はイタリアンと結論。  閉店する店の存続とこちらも考えが一致。  1995年にイタリアンレストラン“アプリコート”をオープンしました。

Q:では、イタリアとの出会いは、言葉ではなく料理が最初ですか!?
A:はい、レストランが先です(笑)。

坂口さんの興味深いお話の数々、次号に続く…
カラバッシュ*calabash:ひょうたんの意味

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