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再び小田原へ…

 今回は宮島永太良の出身地・小田原に再びスポットを当てる。現在は都内在住の宮島だが、ある程度の年齢までいた小田原は、やはり宮島にとって永遠のホームタウンと感じているようだ。「年にかならず何回かは帰ってきています。出身地を聞かれればもちろん小田原だし、時には在住の地を聞かれても小田原と答えそうになる時もあります」

 
小田原城址・天守閣

 今回まず訪れたのは小田原城址。天守閣をはじめ、数々の歴史建築が観光客を賑わしている。しかしながら、この小田原城の建築物、ほとんどが再建なのだという。「私が幼い頃はほぼ天守閣と外堀沿いの隅櫓(すみやぐら)しかありませんでした。しかも天守閣は昭和35年の再建で、オリジナルの小田原城の遺構は皆無と聞いています」

小田原城址にて・鎧武者

 なんと、あの威厳のある天守閣も昭和に入ってからの建物だったのだ。この天守閣、その昔、時代劇の映画やドラマなどでよく撮影に使われたそうだ。東京近辺では皇居を除いては、歴史的な雰囲気を残す城郭建築がここ小田原にしかなかったのが理由のようだ。笑ってしまうのは、この小田原城の天守閣を堂々と写した画面の下に「彦根城」などとテロップが出たこともあるそうだ。

小田原城址にて

 城址公園の最も外に位置する馬出門を出て、赤い橋を渡り外堀を越えると、御堀端通りに出る。この赤い橋は「学橋」(まなびばし)という名前だが、これはかつてこの堀の内側に小学校があったことに由来する。しかもこの小学校は宮島の通っていた小学校と合併したというから、この辺でも何年か前から少子化の波が訪れていたことが考えられる。

馬出門

 お濠端通りをまっすぐと海に住むと「御幸ヶ浜」と呼ばれる海岸に出る。ここには市営プールがあり、小学校時代の宮島もよく好んでこの市営プールに訪れたそうだ。
「小田原は全体的に海水浴が禁止されている場所が多いので、プールの需要が高かったと言えます。何やら、小田原の海はいわゆる遠浅ではなく、あるところまで行くと突然深くなるというそういう構造らしいのです。もちろん見たことはありませんが」
 またこの小田原の海岸の砂はかなり粗めだと言う。宮島はよく自分の作品に砂を混ぜたりしたことがあったが、千葉の九十九里の方の砂はサラサラとしていて絵の具に混ぜやすいのだが、小田原の海岸の砂はゴロゴロして混ぜにくいといった経験があった。

御幸ヶ浜

 さらに南西に進むと、小田原で唯一の漁港・早川港に行き着く。この辺は最近魚介類を食べさせる飲食店などが立ち並び、観光客の集う場ともなった。
「私が子供の頃住んでいた家はこの港からも近かったのですが、その頃は本当に閑静な場所でした。漁業の船が出入りするだけという印象でしたが、何回か、朝の魚市場で賑わっている時間を見たことがあります。その時ばかりは大変活気づいていました。今は観光客で一日中活気づいているのですから、時代も変わったものです」

早川港

 この早川港あるところは、箱根の芦ノ湖まで流れている川・早川の河口を伴っている。さらにこの河口の辺りは早川という地名でもあり、JR早川駅があることでも知られている。その早川駅の裏側には宮島が、かつてよく家族に連れられていった観音堂がある。
「20年以上前でしょうか、この早川の地に巨大な観音像ができました。私は子供の頃によく行っていた観音堂のお寺が作ったものかと思ったのですが、よくよく調べてみると、それは全く違う宗教機関が作ったもので「漁覧観音」というものでした」
 名称からしても、港のある町にふさわしい観音像であるのに加え、少なくとも二種の観音様がこの地を守ってくれているとは、大変心強い話である。

観音堂と「漁覧観音」

 この早川地区の隣には板橋という地域がある。東京の板橋区と同じ字である。「子供の頃の私は、板橋というと自宅から近いこの土地のことだったので、東京に同じ地名の場所があると聞いた時は不思議な感じがしました」箱根登山線の駅名にもなっており、完全に小田原の市内にあるのになぜか「箱根板橋」という駅名なのが不思議だ。

大銀杏

 この場所には光円寺(こうえんじ)という名のお寺があり(またまた東京の地名と同じ読み)ここには樹齢500年は超えるであろう大銀杏がある。これも宮島にとっては思い出深い。今は少ししぼんでしまったが、かつてはその堂々とした姿は小田原のあちこちから見えるぐらい巨大だったと言う。もちろん、宮島がかつて暮らしていた家からも見えたそうだ。そのかつての家はこの板橋からほど近い南町と言うところにあった。閑静な住宅街と、市内でも言われているこの場所。近年は、小田原文学館ができたことでも知られている。

小田原文学館へ

「小田原文学館は、完全に民家を再利用したのです。かつて私の家の二件隣にGさんという名の、とても豪華な洋館の邸宅がありました。『こんな家に住んでみたいなあ』と憧れるようなその家は老人の女性が一人で住んでいたと聞きました。おそらく亡くなった後、小田原市が母屋を引き取って文学館として再利用したのでしょう」
「またその隣にも、こちらは豪勢な和風建築のMさんという邸宅もありました。どこかの大企業の社長だったという噂も聞きます。こちらも持ち主がいなくなってからは小田原市が文学館別館・北原白秋館として採用しています。どちらも文学館となって初めて中に入りましたが、展示はさることながら『GさんもMさんも、こんな家で暮らしていたんだな』と想像にふけりました」
 ちなみにこの別館で特集されている北原白秋は、小田原に居を構えていたことのある文人である。名曲である「慌て床屋」という歌は、なんと宮島が子供のころ通った理髪店の祖先を歌ったものであった。

鴨

 「今でもこの辺りに来ると、住んでいたことが昨日のように思い出されます」
城下町として、そして近年では文人の町としても知られて来たこの小田原も、宮島永太良にとっては永遠の原風景の町となっていたようだ。

(注)魚籃観音
三十三観音の一つで、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くと言われる。
ここでの例のように、魚を入れる籠を持つ形態も多い。

(文・写真 宮島永太良/写真 関 幸貴)

 
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