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長崎探訪…

長崎駅

今回おとずれたのは、日本で最も情緒のある場所の一つ、長崎県長崎市。宮島が長崎に初めて来たのはつい最近だが、この地名は非常に幼い頃から知っていたという。近くにある似た地名「川崎」や「茅ヶ崎」より前に知っていたのだ。宮島によると、それはおそらく歌の題名や歌詞に入っていることが多かったからだそうだ。「長崎の鐘」「長崎ブルース」「長崎は今日も雨だった」など、確かに長崎を題材とし、全国に知れ渡った歌は多い。それもまたこの町の持つ情緒のあらわれと言えるだろう。また「蝶々夫人」といったオペラや、江戸時代の蘭学など、日本で早くから外国とつながっていた場所との印象も持つ。

路面電車

長崎市内を縦横する路面電車は、いわゆる昔から言われる「チンチン電車」のタイプであり、観光名所的な顔を持っている。同じタイプはかつて訪れた広島をはじめ、岡山や豊橋、札幌などにも走っている。東京でも、都電荒川線、世田谷線がこのタイプ。神奈川・湘南を走る江ノ電も、一部が路面電車となる。もっとも大昔には、東京銀座や京都にも走っていたのだ。
 長崎は、山と坂の多い町だが、最初におとずれた場所は、そんな長崎を象徴する南山手町。小高い丘に、異国情緒あふれた建造物が並ぶ。まずは大浦天主堂。幕末の開国とともに作られた長崎居留地に、在留外国人のために建設されたものである。中世ヨーロッパを代表するゴシック様式の教会であり、国内に現存するゴシック建築では最古のものと言われる。ステンドグラスと壁画の秀逸さもこの天主堂の特徴である。ステンドグラスの中には100年前のものもあるというから、歴史の重さを感じさせる。

長崎の街並み

 1597年(慶長元年)、豊臣秀吉の命令により、長崎で26人のカトリック信者(日本二十六聖人といわれる)が磔刑に処されたのが、この天主堂の建立直前のことであった。その意味で、日本二十六聖人に捧げられた教会でもある。天主堂の正面は、殉教の地である西坂に向けて建てられていることでも知られている。
 この一帯は長崎の国際性をあらわす名所が集中している。大浦天主堂のすぐ隣地には、グラバー園がある。ここには旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅(いずれも国指定重要文化財)を中心に、市内に点在していた6つの明治洋館が移築・復元されている。ここも丘の上にあり、下から行くエスカレーターが印象深い。そして中腹に来ると、長崎の海と町を一望できる絶景に出会える。宮島にとってはほとんど初めて見る景色ばかり、ついつい眺めいってしまった。この期間、旧グラバー住宅はちょうど改装中であったが、かえって貴重な場面を見られたのかもしれない。

大浦天主堂

 長崎の食べ物といえば「チャンポン」「カステラ」などがあげられるが、大浦天主堂、グラバー園の下手には、長崎でも老舗のチャンポン店がある。その容姿はまるで中国の城のようだ。それで味はというと、これがまた絶品。本場の味である。ちなみにチャンポンという名前は今から40年ほど前にようやく全国に浸透したもので、それ以前は、ラーメン店やインスタント食品などで「長崎タンメン」と紹介されていたらしい。
 またトルコライスも有名なご当地メニューである。市内の中島川に架かる「眼鏡橋」の近くには、ボリュームのあるトルコライスを出す店があった。トルコライスといっても、それは一つの皿の上にドライカレー(ピラフ)、ハンバーグ、ナポリタン、エビフライなどが盛られているものだ。日本で典型的な洋食の組み合わせであり、直接トルコの食べ物とは関係ないようだが、この名前になった理由は諸説あるようだ。

眼鏡橋

 次の場所は、市内でも屈指の繁華街・思案橋界隈。飲み屋や小料理屋が所狭しと並ぶ道が左右に広がり、昼間でも夜の活気を想像できる。ここには昔キャバレーも数店あったようだ。「長崎は今日も雨だった」の大ヒットで有名になった内山田洋とクールファイブは、この地域にかつてあったキャバレー「銀馬車」の専属バンドであったことは有名な話である。今回、その跡地を調べてみたが、今はビジネスホテルになっているようだ。キャバレーは今や昔懐かしきタイプの店となっていて、東京にも数店あるに過ぎない。

思案橋界隈

 長崎と言えば「出島」も名所だ。江戸時代に、外国人が入って来るのを防止する策として作られた人工の島である。対ポルトガルや対オランダなど、やはり長崎が早くから外国とつながっていたことを物語っている。しかしここの土地、「出島」とはいっても陸続きだ。これは明治時代の長崎港の整備に伴い、埋め立てられたためである。こんな言い方をしたら語弊があるが、映画村とかテーマパークを見ているような気さえする。それは近年、江戸時代の頃の姿に復元する計画が進められているためでもあるだろう。

長崎港

 最後におとずれたのは平和公園。昭和20年8月9日の原爆落下中心地の北側にある。「戦争を二度と起こしてはならいない」という誓いと、世界平和への願いを込めて作られた公園だ。この公園を象徴しているのが、長崎出身の彫刻家・北村西望による「平和祈念像」。垂直に伸ばした右手と、水平に伸ばした左手のポーズはあまりに有名だが、これはそれぞれ「原爆の脅威」そして「平和を」あらわしたものだという。軽く閉じた瞼は、原爆犠牲者の冥福を祈る意味がある。作者によれば、この像全体は「神の愛」と「仏の慈悲」の象徴なのだという。神と仏ではそれぞれ「神社」と「寺」の関係であり、一瞬異なるものどうしのように思えるが、古来より神仏習合の思想が盛んだった日本にとって、この二社が交わるのは自然なことのように思える。毎年8月9日は「ながさき平和の日」と定められ、この像の前で平和祈念式典が行なわれている。日本は世界でも稀な原爆被爆国であると言われてきた。しかし世界の状況を見ていると、決して日本が稀なのではないのではと考えてしまい、悲しいニュースも多く聞く。その時は、この場所に来て、もう一度平和への誓いを思い起こしたいものだ…。

平和祈念像

(文・写真 宮島永太良)

 
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