似顔絵セラピストとして医療施設等で活動する村岡ケンイチさんに
いろいろインタビュー! 第1回

◎村岡ケンイチさんプロフィール



似顔絵セラピスト/イラストレーター1982年 広島県生まれ、O型、水瓶座。2004年 名古屋芸術大学デザイン学部
イラストレーション科を卒業。その後、星の子プロダクションに所属。2006年 県立広島病院で「似顔絵セラピー」を発表、似顔絵セラピストとして
医療施設・介護施設を中心に似顔絵を通して「笑い」を提供する活動を開始。
日本テレビ「スッキリ」の特集で紹介されるなどメディアにも出演、「似顔絵は人を癒し、楽しい空間を提供することができる」ことを発信している。2007年 フリーランスとして活動を始める。2012年 似顔絵セラピーの効果が、医学論文として日本農村医学会雑誌「第60巻第4号」に掲載。また、日米韓の三か国で行われた似顔絵国際大会・白黒部門4連続優勝。2019年 大阪府の豊中市文化芸術センターで開催された似顔絵大会
JAPAN GRAND PRIX '19に出場、白黒部門1位と総合部門7位を受賞。現在は、東京都・広島県・山口県岩国市を拠点に活動している。
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月刊宮島永太良通信編集部(以後M):これまでの絵と村岡さんの関わりをお話しください。
よろしくお願いします。早速ですが、幼い頃で印象に残っていることは何でしょう?
村岡ケンイチさん(以後K):強く記憶に残っているのは、小学校入学の1~2年前、保育園から幼稚園に転園したことです。自分を取り巻く環境が一気に花開き、あの時は総天然色の世界に入ったようでした。
廿日市市にある「かえで幼稚園」に転じたのですが、そこは子どもの自主性を考え、自由な発想を大切にして見守ってくれました。例えば、劇も発表する場合も子どもたちでストーリーを考え演じていました。

M:幼稚園では、どんな感じに過ごしていましたか?
K:保育園の義務的昼寝はなくなり、終始自由な時間をだったので好きな絵を描いたり、
モノづくりしたり、ローラースケートをし、毎日がマイペースでした。でも、その中でボクはある意味異端児。他の子と違ったのは、大きな群れに属したことはなく2〜3人の
チームで、より自由に動いていました。
M:幼稚園では何を描いていましたか?
K:小学校では好きなドラゴンボールの漫画や似顔絵は描いていました。でも、ボクの安定した将来を考えていた教育熱心な父のお陰で、就学前から公文に通い、他から束縛された時間が多かったです。当時、広島県では中学受験で一定程度子どもたちの進路が決まってしまっていたので、
ボクも4年生からは地元の進学塾に入ったのですが、塾とは学習面を含め様々なことが自分と
合わず、最終的にはサボることを憶えてしましました。
M:サボる?
K:ボクの様に塾の勉強についていけない友だちと一緒に行き先の違う電車でエスケープしたり
していました。他にも色々あり、結局少し勉強が楽な塾に変わりましたが、通うのは嫌でした。
M:中学受験は?
K:案の定うまくいかず、地元の公立中学校に進みました。
M:中学校では?
K:元々体を動かすのが好きで、小学校4年になるまで地元のソフトボールチームに入ってい
ました。だから、中学校では思いっきり運動をしたくてにサッカー部に入って3年間過ごしました。

M:サッカーのポジションは?
K:主にディフェンス、一番地味な右サイドバックです。サッカーセンスはどうか分からない
けれど、ボクはスタミナがあり中距離走が得意だったので、才能ではなく体力で補い、
好きなことは一所懸命やるのでサッカーはサボりませんでした(笑)。
M:中学校で絵は描いていましたか?
K:サッカー部が忙しく、比重がそちらだったので、漫画や落書きぐらいです。ただ、興味が
あったので美術部へは覗きに行っていました。
M:美術の成績は?
K:美術の授業は好きでした。そこそこ描けると言う自負はあり、割に点数は良かった。でも、
今考えると中学時代のボクは絵によって癒されていたのかもしれません。
M:絵に癒される?
K:サッカー部で楽しくやっていたように見えますが、事実、ボクのマイペースの性格と
塾通いで地元の子たちと良い関係を築いていなかったし、普通の子ならできるコミュニ
ケーション能力も乏しく、進学塾に通いながらも中学受験に失敗。それもいじられ、
コンプレックスになっていました。でも、絵を描くことで自分のポジションを獲得でき、
絵で自信を守っていたのかもしれません。
M:具体的には?
K:例えば、クラスで演劇をやる場合、必ず「劇の背景は村岡だよね」と言われました。
つまり、絵がないと自分の居場所がなかったと言えるのかもしれないし、絵があるから
人と話せ、存在証明にもなっていたと思います。

M:中学時代のエピソードで似顔絵セラピストのベースが垣間見えますが、高校進学時の夢は?
K:ボクは数学や図形が得意、そのうえ絵が好きだったので、それが両立した仕事は何かなと考えた時、
浮かんだのが建築家。なので、内部進学で建築科に進める広島工業大学高等学校の普通科に入りました。
M:まだ絵の道を志していませんが、決めたのは何時でしたか?
K:同じクラスにボクが初めて絵が上手いと思った同級生/松原君がいました。彼も運動好き、
そのあたりでも気が合いました。高三になる春だったと思います。通学路にあるYMCAに絵の
予備校があり、「無料で1週間体験」のキャンペーンをやっていたので、その言葉に誘われ
「どんなものか見よう!」とふたりで参加。そうして教室に入った瞬間、こんなに絵が
上手な人がいるんだと驚き、美術大学の存在も初めて知りました。それから、調べてみると
美大には油絵、日本画、デザイン等色々な科があるのを知り、ご飯がちゃんと食べられるのは
デザインと考え、将来的に自分は美大卒業後、デザイナーを経てイラストレーターを目指すことに決めました。
M:その時のご両親の反応は?
K:当然、父は反対。でも、母が、そこまで言うなら将来どうなるのか分からないけれど、
「好きなことをやれば」と言う思いで応援してくれ、YMCAに通わせてもらいました。
M:美大はたくさん受けましたか?
K:武蔵美や多摩美へ進みたかったけれど、美大受験の準備が遅過ぎたので先生に無理だと
言われました。それは納得できる言葉で、当時のボクはトレースはうまかったけれど、
デッサンすら知らず、面や重さの表現が全くできなかったのです。だから、現役合格を目指すなら東京ではなく、
関西、中部地方の大学を狙ったらどうかとアドバイスを受け、現役で名古屋芸術大学デザイン学部に入学しました。

次号に続く