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Road : つれtakeロード

 

筑波

「つれTAKEロード」今回の行先は、茨城県の筑波研究学園都市(以下、学園都市)。日本で唯一の研究学園都であり、筑波山を望む緑豊かな場所に約300の研究機関がそろっており、まさに日本のブレインともいえる場所だ。

 ここはもともと1950年代、人口過密になっていた東京の首都機能の一部を移転 させる目的で計画された都市であった。「東京の中心に必ずしもなくてよいもの」「東京からそんなに遠くない所で、比較的平坦な場所」ということで、大学をはじめとした各研究機関が、この筑波の地の移されたという。また、現地の農業関係者との意見調整から、当初の予定よりかなり狭くしたようだ。町を歩いていると、狭いという感覚は微塵もないのだが。

学園都市

宮島は何度かこの学園都市を訪れている。「私が最初にこの地を訪れたのは、もう20年くらい前のことですが、大変感動したのを覚えています」学園都市のもつ知的な雰囲気と緑に恵まれた環境は、まさに「知の楽園」のようであったという。「もし今学生に戻れるなら、こんな場所に暮らして学んでみたい、という思いにかられます」。

今でこそ、つくばエクスプレス(2005年開通)があるおかげで、都心から1時間ほどで着いてしまうが、その頃はまだ直通電車はなく、土浦駅まで電車で来てバスに乗り換えるか、あるいは東京駅から高速バスに乗るのが一般的だった。「つくば行きの高速バスで、途中で事故渋滞に巻き込まれてしまい、結局2時 間以上かかって着いたことが忘れられません。その後しばらく、バスをあてにできないと思い、利用を避ける日々が続きました」

ロケット

エクスプレスのつくば駅を降りて地上に出ると、まず目に入るのが遠方にある 大きなロケット。そこは「つくばエキスポセンター」である。30数年前のつく ば万博(後述)を記念して建てられた科学展示の施設で、世界最大級のプラネタ リウムがあることでも知られている。

プラネタリウム

科学の知識を子供にもわかりやすい形で、かつ実体験に展示している。形状記憶金属が元通りの形になる様子、真空ボールの中の稲妻が、ボールを持つ手に 吸い寄せられる様子など、一度体験すると忘れられない。宮島がかつて直接学 んだことのある竹村真一氏の発案による「触れる地球」も設営されていた。「竹村先生による『触れる地球』は最新技術が駆使されていて、巨大な地球儀を手で回すだけで、世界各地の現在や過去の気象、地質や動物の生息状況まで わかる斬新なものです。私もこの装置の教育的普及を応援していますが、この筑波で見られたのは感動です」。

ロボット

ところで本来「筑波」と書くこの場所は、近年「つくばエクスプレス」をはじめ「つくば」と平仮名で表記されることが多い。埼玉県の合併県庁所在地も「埼玉市」でなく「さいたま市」になった。時代的に、漢字を避ける、もしくは仮名を好む傾向があるのだろうか。時として「子供っぽい」とか「賢くなさそう」とか揶揄されることもある仮名表記であるが、この「つくば」に関しては、平仮名がかえって知的なシンプルさを与えているようだから不思議だ。

この学園都市は緑もさることながら、水の存在も印象深い。学園都市内にいく つかある池のほとりを通ると、どこか癒される気持ちになるのは、やはり人間 にとって水とは、深層心理のうちに生命の源を感じさせているからではない だろうか。

筑波で学園といえば多くの人が連想するのが「筑波大学」だろう。 前身は東京教育大学であるが、各研究機関の筑波移転後の1973年に、あらたに 創立された。名門として知られるこの大学は、約10の学群(他大学でいう学部) に分かれ、緑豊かな学園都市の様々な場所に校舎を持つ、大変恵まれた環境に ある。近年では医療における芸術効用の研究も、関東地区としては最も進んで いるといえる。

展示

そして筑波大学とともに筑波で連想されるのは、1985年に開催されたつくば 万博(国際科学技術博覧会)だろう。70年の大阪万博、75年の沖縄海洋博に続き、 日本では3番目に開 かれた万博であり、環境と科学技術をテーマに、48ヵ国が 参加したこの万博は、ある世代から上の人には記憶に新しい。

地球儀

参加したこの万博は、ある世代から上の人には記憶に新しい。 その後、大阪の花の万博、愛知の愛地球博を経て、来たる2025年、大阪で再び 万博が開かれることになった。この万博招致に尽力したキーパーソンであり、 70年の万博でもプロデューサーを勤め、宮島も直接学んだことのある堺屋太一 氏が、この2月に逝去されたもとは残念でならない。

さくら民家園

「堺屋先生には、万博を大阪で行う意義について、何度かお話を聞きました。 とにかく日本に元気を取り戻そう、という意味が大きく感じられます。大阪の 万博招致が決まった時には、まず最初に堺屋先生のことが頭に浮かびました。 しかし、開催を待たずして逝かれたことは非常に悔やまれますし、できること なら会場にご登壇いただきたかったです」と宮島は語った。

そんな悲しみも乗り越えながら、日本では6回目となる万博開催となった。果たしてどんなものになるだろうか。筑波でかつて開かれた万博は、6年後のことを考える上でも、大いに再検証されるべきではないだろうか。そしてこの学園都市も、世界の「スマートシティ」のモデルとなってほしいところである。

(文・写真 宮島永太良)

 
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