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芝公園

今回は東京都港区にある芝公園を歩いてみた。
芝公園といえば芝増上寺を中心に、東京タワー、東京プリンスホテル等も含んだ広い地域であり、1873年(明治6年)に開園したというこの公園は、都内でも最も古い公園の部類に入る。その敷地は広く、650平方メートルとなっており、町名としても港区芝公園1から4丁目までがあるので、現在では事実上、町の名前となっていると言っていい。

芝公園

今回はその中でも最北端に位置する「最も公園らしい」箇所「芝公園4号地」にスポットを当てた。「○号地」というのは、公園の開園時代、その広い地域を1-25号までに振り分けたものだ。

芝公園

立ち寄ったのは都営地下鉄三田線・御成門駅を降りてすぐの場所である。ちなみに芝公園という駅も、同じ三田線の一つ隣に存在する。
この場所は二つの広場と子供の遊具をそなえ、地域住民や観光客が、ファミリーで時を過ごす憩いの場となっている。東京タワーが正面に見える遊歩道には東京都の木でもあるイチョウが立ち並び、季節柄ギンナンが至る所に転がっているが、踏まないようにしたい。

芝公園

この公園の中心には、公園を象徴するかのような塔が立っている。「平和の塔」という名のもので、碑文を見ると1955年(昭和30年)の終戦記念の日/8月15日に建立されたと解説がある。さらに碑文には次のように書かれている。
「戦争の痛手をきびしく受けた私たち日本の少年少女は、人類永遠の平和を願う、やむにやまれぬ心のしるしとして、長い間かかって、ここにこの塔を建てました」
その名前が示すように、これは平和を願うシンボルとしての塔であった。全面が正面のような作りだが、一面の上部には平和の象徴・ハトの飛ぶ姿がデザインされている。

芝公園

終戦から9年後、結核療養所の初代所長であった田沢鐐二の発願により、平和を願う全国の小中学生が、廃品回収などで集めた寄金で建てられたという。日本ではその願いも甲斐あり、その後戦争は起こらず、一応は平和を保ってきた。しかし海外はどうだろうか。

芝公園

この場所にはさらに昔の記念碑も見える。「開拓使仮学校跡」の碑である。ここには北海道大学の前身となった学校があったそうだ。明治初期、北海道開拓の人材を養成するため、芝のこの地に学校があった。いずれ北海道に移し、より大規模な学校にする計画だったため「仮学校」という名が付けられたとか。広大な北海道の地の開拓をめざし、当時の若者が胸はずませてこの地に学んだ姿がうかがえる。文明開化の夢のある時代の一幕である。

芝公園

ところで公園と言えばベンチだが、この公園にも、植物柄を意識したと思えるデザインの、エレガントなベンチがある。さらによく見てみると所々にデザインの違うものが少しずつある。いくつかに一つ、より凝ったアラベスク模様が下部にあるのだ。これもこの公園の裏技か?

芝公園

この4号地にはもともと児童館があったそうで、子供の遊び場、そして学び場、という色合いが濃い場所だ。その名残もあってか、公園と隣接するように公共図書館が存在する。レンガ色のレンガでできた建物が印象的だ。コロナ禍もあり、借りた本は一度消毒機で消毒してから持ち帰ることが推奨されている。感染はもちろん心配であるが、図書館で出会った初めての本を開く楽しみは、今後も消えることはないだろう。

芝公園

図書館の脇には「お台場の石垣石」というのがひっそりと置いてある。お台場といえば今やゆりかもめが走り、テレビ局やさまざまなレジャー施設のある観光地として久しいが、もともとは1853年のアメリカからの黒船来航時、有事に備え臨時に作られた海上砲台をだった。そのうちの一つがここにあるというわけで、これは伊豆近くから採られた安山岩であるらしい。今ならちょっとしたベンチ代わりになりそうな風貌の石だが、当時はこれで大砲を支えていたというのは感慨深い。

芝公園

この芝公園4号地公園では、今日も多くの子供たちが、すべり台、鉄棒、ブランコなどで元気よく遊んでいる。それにしても公園の遊具(特にすべり台)はどういう人が設計し、どういうメーカーが作っているのだろうか。調べれば公園遊具のメーカーというのもかなりあるようだが、この設計の面白さ、秀逸さは、建設物のそれを大きく凌ぐよう気がする。特に最近の遊具は進化している。巨大立体アートとしても成立しそうだ。子供たちがユニークな空間に囲まれ、自由に遊べる場所。そんな子供の体力と感性を支援してくれる場所が、今後ももっともっと増えて行ってほしいものだ。

(文・写真 宮島永太良)

 
 
 
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